金田一耕助ファイル10    幽霊男 [#地から2字上げ]横溝正史   目 次  第一章 モデル仲介業  第二章 赤い浴槽  第三章 左の小指が……  第四章 |沐浴《ゆ あ み》する女  第五章 人形の|生《うぶ》|毛《げ》  第六章 誘拐  第七章 わが傑作    第一章 モデル仲介業  神田|神保町《じんぼうちょう》の裏通りにある、共栄美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》というのは、画家や、ちかごろはやる|素人《しろうと》ヌード写真家にモデルを提供する仲介業者である。  モデル仲介業者にはもっとほかに、歴史の古い、有力な機関があるが、共栄美術倶楽部というのは、ヌード写真流行の波にのって、二、三年前に出来た新しい店で、それだけに、モデルに醜業を強いるとか、いかがわしいヌード写真を撮らせるとか、とにかく評判は芳しくない。  しかし、世の中はよくしたもので、こういういかがわしい|噂《うわさ》を承知のうえで、いや、そのほうが|真《ま》|面《じ》|目《め》なモデル仲介業者よりよろしいと、ヒイキの客も珍しくない。  それは一月も終わりの午後四時過ぎのこと、と、いうことは、ちょうどその頃が、電気をつけるにはまだ早いし、さりとて電気をつけぬと薄暗いしという、中途半端な時刻であることを意味している。  共栄美術倶楽部の支配人——と、いっても、この事務所には事務員が三人しかいないのだが、あとのふたりはそのとき留守だった——広田圭三が、せまい土間の事務室で、|股《また》|火《ひ》|鉢《ばち》をしながら、殺風景な畳じきの奥の六畳にたむろしている三人のモデル女や、そのモデル女を|両脇《りょうわき》にかかえこんだ、中年の紳士を相手にY談に花を咲かせているところへ、「共栄美術倶楽部」と、こればかりは、いやに新しい金もじで刷り出したガラス戸を押して、薄暗い土間へすうっと入ってきた男がある。  後日、広田圭三が警官の質問に対して答えたところによると、ひとめその訪問者を見たせつな、冷たい風にでも当たったような、薄ら寒さを感じたというのだが、いかさまそれは、あまり陽気な人物とはいえなかった。  ばさばさと、額や|頬《ほお》にたれかかった長髪の上にベレー帽、黒眼鏡をかけて、襟巻きのなかに|顎《あご》を埋め、靴の|踵《かかと》までとどきそうな|外《がい》|套《とう》を着ているところは、こういう倶楽部に出入りする人物として珍しくないが、くる病ではないかと思われるほどひどい猫背で、足音もなく、すべるように帳場のまえへよってきたときには、広田圭三がゾーッと総毛立ったのも無理はない。 「あの……」  と、薄気味悪い男は、帳場の金網に額をこすりつけるようにして、 「モデルをひとり頼みたいのだが……」  低い、もぐもぐとした、やっと聞きとれる程度の声である。 「はあ。……」  と、いったきり広田圭三は言葉が出ない。金網のなかで|椅《い》|子《す》をずらして、まじまじと相手の顔を見ている。  鼻が|隆《たか》くて……と、いうよりは、あとになって付け鼻ではなかったかと、噂されたくらい鋭く曲がって|尖《とが》って、薄い唇が|巾着《きんちゃく》の|紐《ひも》をしぼったように、すぼんでかさかさに乾いている。それにあの顔色の悪さはどうだ。黒いというよりは土色をしているのである。  年齢の見当はさっぱりつかない。三十から五十までのあいだだろう。とにかく気味が悪いのである。 「あの……」  と、さっきの言葉が聞きとれなかったと思ったのか、薄気味悪い男はもう一度、 「モデルが一人欲しいのだが……」  と、陰気な声でくりかえした。 「はあ、それは……」  と、支配人はやっと気をとりなおして、 「どちらさんからかの紹介状でも……」  内容がインチキなだけに、はじめての客を警戒するのである。 「ああ、それは加納先生から……」  薄気味の悪い男、中風病みのようにふるえる手で、名刺入れから名刺を出して、金網の窓から押しこんだ。真っ黒な手袋をはめた手だ。  支配人が手にとってみると、加納三作と刷った名前のうえに、 「佐川幽霊男君を御紹介申し上げ候」  と、太い万年筆の走り書きである。 「ゆ、ゆ、ゆうれいおとこ……?」  広田圭三が眼を見張って、気味悪そうに口走ったので、奥にたむろしていた三人のモデルと、金縁眼鏡の中年の紳士が、びっくりしたようにこちらを向いた。 「これ、あなたのペン・ネーム」 「ああ、そう」  気味の悪い男は口をあけてにやっと笑ったが、そのとたん、広田圭三はまたゾッとしたように肩をすくめた。  幽霊男の口には歯が三本しかない。上顎に前歯が一本、下顎に同じく前歯が二本、ただそれだけ、歯のない口がまっくらな洞穴のような感じで笑っている。  幽霊男はあわててマフラで、鼻のうえまでかくしながら、 「佐川ゆうれいおとこ……? なるほど、そのほうがいいかも知れんね。ほんとうは本名の|由《ゆ》|良《ら》|男《お》をもじって、ゆれおのつもりだが……うっふっふ」  いけすかないペン・ネームだ。それに額や頬にたれさがった、ばさばさとした、油気のない長髪が気にくわぬ。しかし、客はやはり客なのだ。 「モデルは絵ですか。写真ですか」 「油絵だがね」 「いつから……?」 「明日から。……毎日二時間、十日ほどの予定で通ってもらいたいのだがね」 「アトリエは?」 「|西《にし》|荻《おぎ》|窪《くぼ》」 「とにかく、そこに規則書がありますから。……その条件でよかったら。……」 「いや、規則書なら加納先生にもらった」  幽霊男はポケットから、|皺《しわ》|苦《く》|茶《ちゃ》になった規則書を出して見せた。加納先生というのは、お茶の水にある大きな病院の外科医長で、ちかごろヌード写真に凝っており、この倶楽部での上得意である。 「ああ、さようで、加納先生とはどういう御関係で……」 「患者だよ。わたしは、……ところで、気に入ったモデルがあったら、十日分前金で払ってもいい」  よい条件である。広田支配人は気味悪さを忘れて、だんだん愛想がよくなった。 「いま遊んでいるのが三人いますが、そのなかからお選びになりますか」 「ああ、見せてほしいね」 「では、どうぞ。お靴のままで結構です」  広田支配人が横についている、腰の高さほどの木製のドアを開くと、幽霊男は足音もなく、その中へ入っていったが、そのとたん、奥の六畳にたむろしていた三人のモデルと、モデルとふざけていた金縁眼鏡の紳士が、ぎくっとしたように体をふるわせた。それほどその男の印象は誰の眼にも気味悪いのだ。 「あの三人なんですがね」  さすがに商売なれた三人の女も、幽霊男の|舐《な》めるような視線にあうと、体をすくめてあとじさりをする。それをかばうように、金縁眼鏡をかけた紳士が、 「加納さんの紹介だということでしたね。加納さんはしかし、いま旅行中だが……」  幽霊男はうやうやしく頭をさげて、 「存じております。九州でしたね。しかし、明晩御帰京の予定だそうで」 「ああ、そう」  金縁眼鏡の紳士はなにかぎょっとしたように、モデルをかかえていた手をはなして、そのままそっぽをむいてしまった。黒眼鏡の奥からじろりと見る、幽霊男の視線に射すくめられたのか。……  幽霊男は片手で鼻のうえのマフラをおさえたまま、じろじろと、舐めるように三人の女を見くらべていたが、 「あの左のはじにいるひとね。あのひとのヌードを見たいのだが……」 「ああそう、恵子ちゃん、ちょっと隣の部屋まで来てくれたまえ」  名指された恵子というのは、三人のなかでもいちばん器量も悪く、肉体も貧弱で、服装も見すぼらしい女である。  恵子はちょっと|呆《あっ》|気《け》にとられたような顔をして、幽霊男の黒眼鏡のおくをのぞいていたが、やがて無言のままプイと立って、かたわらにかかったカーテンの中へ入っていく。 「さあ、どうぞ。土足のままで結構です」  事務所のおくのドアをひらくと、モデルの裸身を見る部屋がある。幽霊男は支配人のあとにつづいて、ドアの中へ入っていった。     猟奇の三人 「お恵ちゃん、よせばよかったのに。あのひとなんだか気味が悪いじゃない?」 「ほんと。お美津ちゃんのいうとおりよ。生血でも吸いそうじゃない?」 「あっはっは、ゆれおだかゆうれいおとこだか知らないが、きざなペン・ネームだな。ほんとに幽霊みたいな男だ。お恵ちゃん、お美津や貞子のいうとおり、断わったほうがよかったかも知れんぜ」  あれから間もなく、契約をまとめた佐川幽霊男が、猫背をまるめて幽霊のように帰っていったあとのことである。ふたりの|朋《ほう》|輩《ばい》やひとりの客にいろいろ言われて、 「仕方ないわ。あたいはこのひとたちみたいに売れっ子じゃないんだもン。このところすっかりあぶれてンだからな」  捨て鉢な調子ながら、眼にはうっすら|泪《なみだ》がうかんでいる。さすがにあの気味の悪い男の、モデルにならなければならないかと思うと、自分で自分がいじらしくなったらしい。 「おい、おい、みんなそういうなよ。菊池さんもおどかさないでくださいよ。契約は契約だからね。もう前金でいただいてンだ。恵子ちゃんいってくれなきゃ困るぜ」 「ええ、もちろん」  恵子はプイと立ち上がると、金縁眼鏡の紳士のポケットから、シガレット・ケースを取り出して、ピースを一本口にくわえると、 「あたい、もういくわ」 「恵子ちゃん、いいじゃないか。いまに|建《たて》|部《べ》が来るから、何か温かいものでもおごるよ」 「ありがと。でもあたい、久しぶりにお宝にありついたから、自分で自分におごってやるわ」  恵子はたばこを口にくわえたまま、いかり肩で風を切るようにして、共栄美術倶楽部と書いたドアを開いて、空っ風の町のなかへ出ていった。オーヴァの|肱《ひじ》のところが、だいぶ薄くなっているのが哀れである。 「マネジャー、いまの男ね、幽霊男さ、名刺おいてった?」  恵子がいま投げ出していった菊池のシガレット・ケースから、たばこを一本抜きとりながら、お美津が事務所のほうにいる広田支配人に声をかけた。  宮川美津子というこの女は、この倶楽部に所属するモデルのうちでも、売れっこのほうである。顔もちょっと踏めるし、体も悪くない。ただいったいに、気品に欠けるのがこのモデルの欠点である。つまり野卑なのだ。 「ううん、名刺はおかなかった。住所はここに控えてあるが、わかりにくいところだから、明日三時きっかりに、西荻窪の駅で待ってるといってたよ。恵子をさ」 「佐川幽霊男なんて絵かきさん、聞いたことないな」  貞子もたばこのお|相伴《しょうばん》をしながら、ひとりごとのように|呟《つぶや》く。三人で取りかこんだ瀬戸の大火鉢には、たばこの吸殻が|百本杭《ひゃっぽんぐい》のように突っ立っていた。 「いいじゃないか、そんなこと。お金にさえなりゃいいんだからな」  広田支配人がにやにやしているのは、契約金以外に、チップにでもありついたのかも知れない。 「それはそうと……」  と、金縁眼鏡の菊池が腕時計を見て、 「建部のやつ、おそいな。何か事件でも起こったのかな」  と、舌打ちしながら一同の顔色を見ている。  菊池陽介というこの男は、もと、一流の大会社の社長をしていたこともあるという、知名の実業家を父に持ち、頭脳もよく、母校である某私立大学の助教授をしていたが、あまり素行がおさまらないので、最近くびになったうえに、細君にも逃げられたという話だ。さんざん道楽をしあいたあげく、ちかごろヌード写真にこっているのだが、同じヌード写真にしても、モデルをこのいかがわしい、共栄美術倶楽部にもとめるところに、かれの悪趣味がうかがわれる。 「新聞社もちかごろ|閑《ひま》なんでしょう。大きな事件も起こらないから」  広田支配人は|股《また》|火《ひ》|鉢《ばち》にしがみついている。 「事件が起こったところで、あの坊やに何が出来るかしら。心細い新聞記者ね」 「親の光は七光で、首はどうやらつながってるけどね。菊池さんとはいい相棒よ。あのひと……」 「それと加納先生とね。なにしろ猟奇クラブの三幹部だもンね。うっふっふ」  お美津と貞子があざ笑った。菊池はにやにや笑っている。 「菊池さん。猟奇クラブの新年会のプランはまだ|樹《た》たないんですか」 「だからさ、今夜ここで相談しようと思ってたんだが、加納のおやじの帰京がおくれるとなると、三日延期だ。何しろあのおやじはわれわれの大先輩だからな」 「助平だからねえ、あの先生も……」 「おいおい、お美津ちゃん。うちの店の大パトロンの陰口きいてくれちゃ困るよ。何しろこの店、このお三人さんで持ってるようなもンだからな」 「インチキ・モデル仲介業の大パトロンか。光栄のいたりだよ。わっはっは」  菊池陽介が笑っているところへ、新東京日報社の建部健三が、やはりこの倶楽部所属のモデル、西村|鮎《あゆ》|子《こ》と手を組んで入ってきた。 「何笑ってンの、菊池さん、何か面白いことでもあったの」  建部健三は三十前後、長身のいかにものんきらしい坊やである。|親《おや》|爺《じ》が新東京日報社の専務をしているので、フリーパスで入社したが、いままでこれという仕事をしたことがない。社会部の厄介者みたいな存在である。 「おや、鮎ちゃん、坊やといっしょだったの。お楽しみね」  貞子が月並みなからかいかたをするのを、鮎子はうっふっふと気どった笑いかたで受けて、 「ううん、そこで会ったのよ。お美津ちゃん、今晩は、菊池さん、何かおごってよ」  お美津はかたい微笑をかえしただけで、手を組んだ健三と鮎子から眼をそらした。ふたりが現われてから急に元気がなくなったようだ。  西村鮎子はこの倶楽部でもズバ抜けた売れかたをしている。どちらかというと|痩《や》せぎすで、長身なそのヌードは、絵よりも写真にむいており、どんな露骨なポーズでも、客の好みによって、しゃあしゃあとやってのけるところに人気がある。しかし、じっさいそのヌードは素晴らしく、ここのモデルとしては珍しく、万事に洗練されている。 「菊池さん、加納のおやじは?」 「明日御帰京だってさ。したがって今夜の幹事会はお流れ」 「なんだ、つまらない。おやじ何をぐずぐずしてンだろう。早くしなきゃ一月も過ぎてしまうじゃないか」 「ほんとにそうよ。猟奇クラブの皆さま、しびれを切らしてらっしゃるわ。幹事、しっかりしなきゃ駄目よ」  西村鮎子がけしかけた。 「うん、うんと奇抜な趣向をたてて、会員諸君をあっといわせてやろうと思ってたンだが、おやじが留守じゃしかたがないな」  建部健三はつまらなそうに鼻を鳴らしたが、そのとき、菊池が思い出したように、 「そうそう、健ちゃん、話はちがうが、あんた佐川ゆうれいおとこって絵描き知っている?」 「幽霊男?」  健三と鮎子がいっせいに叫んだ。 「うん、とっても気味の悪いやつだ。名は体を現わすってえが、ほんとに幽霊みたいな男さあね。そいつが恵ちゃんと契約していったんだが、恵ちゃん、生血でも吸われなきゃいいがって、お貞なんか心配してるンだ」 「ほんとにそんな感じの男よ」  貞子が真顔になっていった。 「いったい、誰の紹介なんだい?」 「それがね。加納のおやじの名刺を持ってきたんだ。マネジャー、そこに名刺があったろう。健ちゃんに見せておやりよ。名前だけでも記事になりそうじゃないか」  ひとしきり佐川幽霊男を中心に、話題に花が咲いたが、当の幽霊男はその晩おそく、別の方面へすがたをあらわした。     |聚《じゅ》|楽《らく》ホテル  |駿《する》|河《が》|台《だい》にある聚楽ホテルというのは、東京で一流とまではいかないが、二流のなかでもまずよいほうのホテルである。  外国からの旅行者でも、一流の人士はもっとよいホテルへいくが、少しさがったところになると、このホテルを利用する。日本人でも、一流ホテルは窮屈だというような手合いはよくここへ来て泊まる。足場がよいのと、わりに環境が静かなのが、ホテルとしては恵まれているが、敷地の関係で、あまり部屋数が少ないのが難である。  さて、神田の共栄美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》へ、あの薄気味悪い男が現われてから数時間ののち、即ちその夜の十一時過ぎのこと、聚楽ホテルのフロント・ドアをひらいて、ふらふらと、ひとりの男が入ってきた。  幽霊男である。  幽霊男は|眩《まぶ》しそうに、片手をあげてホールの照明をさけながら、例によって、足音のない歩きかたで、すべるようにカウンターのまえに歩みよった。  ロビーにいたふたりの外人が、びっくりしたように幽霊男のうしろ姿を見送っている。 「部屋がひとつほしいのだが……」  例によって陰気な声である。  カウンターのなかで、|椅《い》|子《す》にふんぞりかえって雑誌を読んでいた、ビヤ|樽《だる》のようにふとった支配人は、幽霊男のちかづくのに、全然気がついていなかったらしく、ぎくっとしたように顔をあげたが、幽霊男の顔を見ると、眼を見張ったまま、しばらく口が利けなかった。  客扱いになれた支配人としては、こんなことは珍しい。 「部屋がひとつほしいのだが……」  幽霊男は同じ言葉を、同じ調子で繰りかえした。 「ああ、いや、これは失礼しました」  支配人は夢からさめたように、 「おひとかたですか」  と、幽霊男の周囲を見まわしながら|訊《たず》ねた。 「うう、ひとりだ」  幽霊男の声は相変わらず陰にこもっている。 「部屋にお好みがございますか」 「いや、べつに……静かなところならいい。それからバスがついていればなお結構だが……」 「ああ、それならちょうどいいお部屋があいております。御案内させましょうか」  支配人がベルを押そうとするのを、 「ああ、いや、ちょっと……」  と、幽霊男は黒い手袋をはめた手でとめると、 「今夜じゃないんだ、明日の晩なんだ、しかし、むろん、予約するとして今夜の分から払っておく」 「ああ、さようで」  支配人は幽霊男の顔を見たが、すぐその眼をそらすと、 「それじゃ、今夜の分もいただいておいたほうがよいかも知れません。まだ十一時ですから、お客さんがいらっしゃって、|塞《ふさ》がってしまうかも知れませんから」 「ああ、そう」  交渉はいたって簡単だった。幽霊男は宿泊名簿に、|西《にし》|荻《おぎ》|窪《くぼ》の住所と名前を記入すると、前金で二晩分の宿泊料を支払った。但し、名前は佐川由良男と記入した。 「ああ、都内にお住いなんですね」 「ええ、そう、明晩どうしても、こちらにいなければならないので……」  こんなことはホテルとしては珍しくないので、支配人もべつに怪しまなかった。 「それで、部屋をごらんになりますか」 「うん、一度見ておこう」  支配人がベルを押すと、すぐに制服を着た給仕がやってきた。給仕も幽霊男の顔を見ると、ぎょっとしたように一歩しりぞいた。  支配人は眼でそれを|叱《しか》りつけながら、 「このかたを十七号室へ御案内申し上げて。今夜はお泊まりじゃないんだ。部屋を見ておかれるだけだから」  幽霊男が給仕の案内で階段をのぼっていったころ、また客がひとりフロント・ドアを開いて入ってきた。これも日本人であった。その客が今夜と明晩泊まることになって、これまた別の給仕の案内で、階段をあがっていったのと入れちがいに、幽霊男がおりてきた。 「いかがでしたか。お気に召しましたか」 「ええ、結構。それでは明晩……ああ、そうそう、忘れてた。明日、たぶん夕刻ごろになると思うが、トランクをひとつとどけさせるから、それをあの部屋へ運んでおいてくれたまえ」 「承知しました」 「なお、念のためにいっておくが、そのトランク、美術品やなんかの貴重な品が入っているから、運搬に注意するように。相当重いと思うが、上下を間違えたりされると困る。こわれものが入っているから、気をつけてくれたまえ。わたしがそれまでに来られたら立ちあうけれど……」 「それはもう十分注意いたします」 「お願いする」 「では、|鍵《かぎ》をひとつ」 「ああ、そう」  支配人から十七号室の合い鍵をうけとって、幽霊男はあいかわらず足音のない歩きかたで、ふらふらとフロント・ドアから消えていった。 「マネジャー、なんだか薄っ気味の悪いお客さんですね。あの顔色ったら……」 「しっ、お客さんの品定めをするんじゃない」  給仕をたしなめながら、しかし、そういう支配人自身も、いま幽霊男の出ていったフロント・ドアを、何か恐ろしいものででもあるかのように視詰めていた。  さて、いっぽう聚楽ホテルを出た幽霊男は、駿河台から|聖橋《ひじりばし》をわたって、聖堂のわきの薄暗い道へ出たが、向こうからやってきた若い娘を見ると、ふらふらッとそのほうへよっていった。 「もし、今晩は……?」  娘はぎょっとしたように、一歩うしろへ退いて、すかすように幽霊男の顔を見ていたが、だしぬけに、 「きゃっ!」  と、叫ぶと、ころげるように駆けだした。 「うっふっふ」  幽霊男は薄気味悪い笑いをもらして、そのままふらふらいきかけたが、そのとき、うしろから追っかけるような足音が近づいてきて、 「おい」  と、声をかけると、いきなり幽霊男の腕をつかんだ。 「な、なに……?」 「若い女をからかっちゃ……」  と、いいながら、相手の顔に気がついたと見えて、急にゾーッと顔をそむけると、そのまますたすたといってしまった。 「うっふっふっ、馬鹿なやつ」  無気味な男はマフラのおくで、得意そうなふくみ笑いをもらすと、そのままふらふら、いずこともなく姿を消した。     |蜘《く》|蛛《も》と|蝶《ちょう》  |西《にし》|荻《おぎ》|窪《くぼ》で電車をおりた小林恵子が、さむざむとしたプラット・ホームを歩いていくと、改札口の外に、きのうの男が立っているのが眼にうつった。薄暗い待合室の一隅に立っているその男の姿は、まるで物の|怪《け》のようだ。全身から黒いかげろうが立ちのぼっている。  午後三時。  ちょうど学校の|退《ひ》けどきなので、付近にある女子大生などが、三々五々、待合室から改札口へ抜けていくが、その男の姿に気がつくと、みんな身をすくめて、避けていく。あとから振りかえってみる子もあったが、そんな子はきっとその夜の夢見が悪かろう。  恵子も一瞬、棒をのんだように立ちすくんだが、すぐ固張った微笑を送り、ちょっと前後を見まわして、それから改札口を出ていった。 「お待たせして?」 「ううむ、いや、ちょっと」 「でも、いま、かっきり三時よ」  恵子は駅の時計を見るようなふりをして、またちょっとうしろを振り返る。 「誰かつれでもあるの」  男は片手でマフラをつまんで、鼻をおおうようにしながら、不機嫌な声で訊ねる。きょうの顔色はきのうよりもっと悪い土色だ。 「あら、どうして?」  恵子はぎょっとしながらも、出来るだけ無邪気に振舞おうと心掛けている。 「いやにうしろを振り返るじゃないか」 「あら、別に……じつはね、さっき電車ンなかでへんな|親《おや》|爺《じ》が、しつこく|悪戯《いたずら》をしかけて来たので、うんと手の甲をひっかいてやった。そいつがついて来やあしないかと。……」  恵子はとっさに|嘘《うそ》をついて、自分の嘘に満足した。いまいったのは数日まえの出来事なのだ。 「うっふっふ」  男はひくい、陰気な声で笑って、 「そういう悪戯をされるのは、君にそれだけ|隙《すき》がある証拠さ。君はいつでも、そんな悪戯をされたいと望んでるンだろう」 「あら、いやだ」  恵子は強くいって、またうしろを振り返った。 「|尾《つ》けてくる? その親爺……?」 「いいえ、|諦《あきら》めたらしいわ」 「お気の毒だったね」 「知らない。それよりアトリエ、遠いの」 「うむ、ちょっと、でも、大したことない」  そのアトリエは西荻窪の町から出外れたところ、かなり広い雑木林の、片かげりのなかに建っていた。アトリエのまえは水の|涸《か》れた池の中に、枯れ|蘆《あし》がしょうじょうと折れている。付近には一軒の人家もなかった。  すべてが心の寒くなるような風景のなかに、唯ひとつ、恵子の心を温めたのは、アトリエの屋根の煙突から、黒い煙のゆるやかに立ちのぼっていることである。アトリエのほかに、建ちくされたような二階建ての日本家屋がある。 「さあ、こっちから入ろう」  表門のまえはわざと通りすぎて、杉垣を横手へまわると小さい通用門がある。恵子は男のあとにつづいて、通用門からなかへ入っていったが、人の住むけはいはさらにない。 「この家、あなたのほかに誰もいないの」  恵子の声がふるえているのは、寒さのためばかりではあるまい。 「うむ。みんな|熱《あた》|海《み》の別荘へいってるンだ。そのほうがいいよ、気楽でね。勝手なまねが出来るじゃないか。うっふっふ」  最後のうっふっふが気に食わぬ。  アトリエは母屋からも、廊下づたいにいけるようになっているが、庭からも入れるようになっている。なかは恵子がこれまでに、何度も見てきたアトリエと、大してかわるところはない。山のように積んだ破れた画布や、こわれた額縁。ビロードのはげた大きなソファのそばに、ストーヴがもえている。  三脚のうえに百号くらいのカンバスがかけてあり、向こうにカーテンが垂れているのは、そこが更衣室になっているのだろう。ただ、窓という窓には黒いカーテンがしめてあり、明かりといえば天井の採光窓からさしこむ、鈍い冬の陽だけだから、妙に薄暗いのが気にかかる。それでも恵子はいくらかほっとした。とにかくこの男、絵描きにはちがいないのだ。  幽霊男はストーヴに石炭をほうりこみながら、 「さあ、ここへ来て体をあたためなさい。その顔色じゃ絵にもならない」 「ええ」  アトリエのなかの温かさに恵子はいくらか生きかえった心地になる。男は戸棚から洋酒の瓶とグラスをふたつ取り出すと、真っ赤なドロドロとした液体をついで、 「さあ、ぐっとひと息におあがり。それを飲んだら向こうへいって、着物をぬいでもらおう。すぐ制作にとりかかるから」 「ええ」  恵子は強い香りのする酒を、思いきってひと息に|呷《あお》った。彼女は相当酒に強いのだが、いま飲んだようなのを経験したことはない。体内が一時にかっと温まって、それと同時に、いままでの薄気味悪さも恐怖も忘れた。 「じゃ、ちょっと待ってね」  恵子としてはせいぜい色っぽい視線を投げて、カーテンのなかへ駆けこむと、玉ネギの皮をはぐように、いちまい、いちまい、着ているものをぬぎはじめた。  その化粧室には大きな鏡が、壁にはめこみになっている。恵子は何もかもぬぎすてたのち、鏡のまえに立ってみる。いま飲んだ酒のせいか、いつもよりずっと体がきれいにみえる。肌がつやつやとして血色が豊かである。恵子はちょっと得意になって、いろんなポーズをつくっていたが、 「何をしてるんだ。早く出て来ないか」  いらいらしたような男の声にうながされて、カーテンの外へ出てくると、男は|外《がい》|套《とう》をぬいでブラウスに着かえていたが、そのブラウスというのが、カトリックの神父さんでも着るような、|裾《すそ》の長い、真っ黒な|繻《しゅ》|子《す》なのである。  しかし、恵子はもう何も怖いものはない。 「どういうポーズがいいの」 「うん、いま、わたしがつけてあげる」  男は恵子の体を抱きあげて、ソファのうえに押し倒すように横たえると、ポーズをつけるというよりは、全身の官能を楽しむように、恵子の体中をなでまわしている。  黒眼鏡のおくの眼が血走って、息使いがしだいに荒くなる。 「うっふっふ、くすぐったいわ。どうするのよう」  恵子は下から男の首に両手をからめて、甘ったれた鼻声である。  どうしていままでこの男を、あんなに恐れていたのだろう。結局、この男も助平な猟奇の徒のひとりに過ぎないのじゃないか。構うもんか、相手のいうなりになって、あとでうんと吹っかけてやればいい。  男はしかしいつまでも、恵子の体をなでまわしているだけで、それ以上の行動に出ようとはしない。恵子はいくらかじれてきて、 「いったい、どうしようというのよう。ポーズをつけるならつけるなり、ほかに目的があるのなら、御相談に乗ってもいいわよ」 「うっふっふ。お察しがいいね。じつはね、君にもらいたいものがあるんだ」 「なんのこと、それ? 貞操のこと? あたいにゃ貞操なんてものないけどさ」 「ううん、そんなもんじゃない」 「じゃ、なにさ」 「君の血がほしいんだ」 「血を……」 「そう、おれの体は冷えきっている。おれの体をあたためるにゃ、君のような若い女の血が必要なんだ。うっふっふ。駄目だよ。もう、もがいても……」  幽霊男は全身の重みをかけて、恵子の体のうえにのしかかってくると、右手に持った甘ずっぱく|濡《ぬ》れたハンケチを、いきなり女の鼻孔に押しつける。  恵子はもがいた。絶望的な恐怖のために、全身が真っ白になっている。恵子は満身の力をこめて、男の体をはねのけようと試みる。しかし、それは|所《しょ》|詮《せん》、|蜘《く》|蛛《も》の巣にひっかかった、あわれな|蝶《ちょう》のもがきに過ぎない。  甘ずっぱい|匂《にお》いが鼻からつうんと脳天へ抜けると、恵子のもがきはしだいに弱まり、やがてぐったりのびてしまう。 「うっふっふ、これでよし!」  男はようやく、恵子の体からはなれたが、急にぎょっとしたように、 「誰だ!」  と、叫んで、つかつかと|大《おお》|股《また》にアトリエを横ぎると、さっとカーテンをまくりあげた。     不安な予感 「やあ、親爺さん、おかえり、いつかえったの?」  神田の共栄美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》のモデルだまりへ、勢いよくとびこんできたのは、新東京日報社の建部健三である。 「やあ、坊や。しばらく。おそくなってすまなかったな」  外套を着たまま、ぐったりと疲れたような顔をして、大きな瀬戸の火鉢をかかえこんでいるのは、|白《しら》|髪《が》まじりの上品な紳士だ。鼻が|隆《たか》くて、眼が鋭くて、浅黒い、きめの細かい皮膚には、年齢を語るくろいしみがひとつ。これが猟奇クラブの大御所格、医学博士の加納三作、外科では相当有名な大家である。  殺風景なモデルだまりには、加納三作のほかに菊池をはじめ、美津子と貞子、事務室は広田支配人と顔がそろっているのに、なんとなく座が沈んでいると思ったら、 「健ちゃん、ちょっと妙なことがあるんだよ」  と、菊池がこわばったような顔を健三のほうに向けた。 「妙なことって?」  健三もついひきこまれて、一同の|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔を見まわしたが、すぐ気がついたようににやりと笑って、 「いやだよ。みんなでおれをからかおうというんだろう。これだから親爺は油断がならない。帰るとそうそうこれだもの」 「ううん、健ちゃん、そんなンじゃないよ」  と、そばから宮川美津子が|膝《ひざ》を乗りだして、 「きのうの佐川幽霊男ね、あのひと、カーさんの名刺持ってきたでしょ。ところがカーさん、そんな男、全然心当たりがないというのよ。こんな紹介状書いたおぼえないんですって」  火鉢のそばに、きのうの幽霊男の持ってきた名刺がほうり出してある。 「坊や、おまえはその男に会わなかったのかい」  加納博士は不安そうな眼つきである。 「ううん、ぼくは会わなかった。ひと足おくれてきたんだけど……」 「カーさん、何度もいうようだけど、そりゃ気味の悪い男よ。うっかりすると生き血吸われるわよって、あたし、恵ちゃんに注意したんだけどな」  ひとのいい貞子がいちばん心配そうな顔色だ。 「とにかく変だよ。どちらにしても、名前を|騙《かた》られるというのは、気持ちのよくないものだからね。べつに間違いはないと思うが。……マネジャー、奥村君はまだ帰らない?」 「ええ、もうそろそろ帰る時分だと思うんですが……」  広田支配人も元気がない。 「奥村君がどうかしたの」  健三が訊ねた。 「うん、ちょっと恵子の家へ様子を見にやったんだ。気になるもんだからね。恵子、本来ならば、もうとっくにここへ、顔を出していなきゃならんはずだから……」  菊池陽介が不安そうに、腕時計に眼をやった。時刻は八時半を過ぎている。 「ふうん、それじゃ、これ、親爺の|悪戯《いたずら》じゃないんだね。ぼくをからかっているんじゃ……」 「おれはきょう帰ってきたばかりだ。こんな悪戯をするひまはない。からかってるとすれば、誰かほかのやつだ」  加納三作は投げ出すようにいって、菊池陽介と建部健三の顔を見くらべた。  そこへ、西村鮎子が元気よく入ってきた。 「あら、カーさん、おかえりなさい。何かお|土産《み や げ》あって?」  と、いいながら、じろじろ一同の顔を見て、 「あら、どうかして? 今夜は誰かのお通夜なの」  しかし、誰もその冗談に応酬するものはない。鮎子は少しふくれっ面で、 「いったい、どうしたのよう。何事が起こったのよう」  と、オーヴァをぬぎかけているところへ、表に自動車がとまる音がして、事務員の奥村がそそくさと入ってきた。 「ど、どうだった、奥村君?」  一同は思わず体をまえへ乗り出す。奥村はとがったような眼つきをして、 「大将、ちょっと様子がおかしいですぜ」 「おかしいって、ど、どういうんだ」  菊池が膝を乗り出した。 「それがね、恵ちゃんに浩吉という弟があるのを知ってるでしょう。少し不良がかっているが、とても姉思いのやつだ」 「ええ、ええ、その|浩《こう》ちゃんがどうかして」  お美津も火鉢のうえに乗り出した。 「恵ちゃん、やっぱり不安だったんだね。浩ちゃんに、こっそりあとから、|尾《つ》けてきてくれるようにって、言いおいたんだって、それで、浩ちゃん、そういうことは得意だから、姉のあとからついて出たんだそうだが、ふたりともまだ帰らないって、おふくろが心配そうな顔をしてるンだ」 「あら、恵ちゃんがどうかして?」  西村鮎子もようやく、話の筋がわかってきたらしく、|眉《まゆ》をひそめて眼をとがらせた。 「うん、きのうの幽霊男ね。|親《おや》|爺《じ》さん、知らないんだって。紹介状なんか書いたおぼえないんだって」  健三が説明した。 「まあ、それで恵ちゃん、まだ帰らないの」 「うん、弟の浩吉もね」  奥村が声をひそめた。 「約束は何時だったの」 「三時に西荻窪であう約束なんだ。それから二時間というんだから……」  広田支配人が柱時計をふり仰ぐ。もうそろそろ九時である。 「恵ちゃんの家は東中野ね。そんなにひまを食うはずはないわ。カーさん、ほんとうにそのひと知らないの」 「知るもんか」  加納博士が吐き出すように|呟《つぶや》いた。西村鮎子はぬぎかけたオーヴァをそそくさと着なおして、 「カーさん、表の自動車、あんたンでしょう。あたしを乗っけて|頂戴《ちょうだい》。マネジャー、その男のアトリエひかえてあるでしょう」 「うん、ここに控えてあるが、ど、どうするんだ」 「あたし、いってみるわ。なんだか不安な予感がするんだもン、恵ちゃん、|可哀《か わ い》そうじゃない。カーさん、あんた係りあいだから、自動車くらいサーヴィスしてもいいわよ」 「うん。おまえがいくならいってもいい」  加納博士も立ち上がった。 「ぼくもいこう」  建部健三も勢いこんだ。 「そうそう、新聞記者がいかなくちゃ……」 「親爺や健ちゃんがいくなら、おれもいかずばなるまい」  菊池陽介もオーヴァを取って立ち上がる。  こうして、結局猟奇クラブの三幹部と、モデルの西村鮎子が、途中東中野の恵子の家へよってみて、まだ、恵子や浩吉が帰っていないようだったら、西荻窪まで飛ばそうということになったのだが、これこそのちに世間をさわがせた、幽霊男事件の発端となったのであった。     運び出されたトランク  |西《にし》|荻《おぎ》|窪《くぼ》の駅へ着いて、駅の近所にある運送屋に、佐川幽霊男のアトリエを聞くと、電気の暗い表の土間で、荷造りをしていたふたりの店員が、ふっと顔を見合わせて、 「佐川幽霊男……佐川由良男というんじゃありませんか」  と、店員のひとりが自動車の窓から首を出している、建部健三に話しかける。 「ああ、そうそう、本名由良男というんだそうだ。それじゃ、君、知ってるんだね」 「ええ、それについちゃ妙な話があるんで、明日でももういちど、アトリエへいってみようかと、いまも吉田君と話してたところなんで」  と、店員のひとりがわざわざ表へ出てきた。 「妙な話ってのは?」 「きょう四時ごろのことなんですがね。薄気味わるい、それこそ幽霊みたいな男がやってきて、トランクをひとつ運んでもらいたいというんです。ちょうどトラックが一台空いていたもんだから、ぼくとここにいる吉田君とふたりでついていくと、あのアトリエへつれていかれたんです」 「ところが、|旦《だん》|那《な》、そのアトリエというのが空家なんですよ」  と、吉田というのが表へ出てくる。 「空家ですって?」  西村鮎子が呼吸をのむ。 「ええ、そうなんです。せんに津村さんて|画家《え か き》さんが住んでらしたんですけれど、せんだって引っ越されたんで。……うちで荷物を運んだンでよく知ってるんです。で、吉田君がそのことをいうと、いや、|丸《まる》|菱《びし》商会に頼んで十日ほど借りてンだと、その男がいうんです。|嘘《うそ》だと思うンなら丸菱へいって、聞いてみてくれとまでいうンです」 「丸菱商会というのは……?」 「土地家屋の周旋業者なんで。そうまで言われたもンだから、われわれもほんとうだと思って、アトリエにある大きなトランクを、指定されたところへ運んだンです」 「指定されたところというのは?」 「|駿《する》|河《が》|台《だい》にある|聚《じゅ》|楽《らく》というホテルなんですがね」 「幽霊おとこもいっしょにいったの?」 「ゆ、ゆ、幽霊おとこですって!」 「いや、ごめん、ごめん、それがあいつのペン・ネームなんだ。それで……?」 「いえ、あの男はあとに残ってました。じぶんはあとからいくが、佐川由良男といえばわかるからというんです」 「で、聚楽ではわかったの?」 「ええ、昨夜あの男がいって部屋を予約しておいたんですね。トランクが来るということも、言ってあったらしいんです。そこまではいいんですが、さっき|風《ふ》|呂《ろ》|屋《や》で丸菱のおやじさんに会ったもんだから、その話をするとおやじさんびっくりしちゃって、そんな話全然知らない。第一、あのアトリエの周旋をたのまれたおぼえもないというんで、こんどはこっちがびっくり仰天というわけで、いまも吉田君と話をして、明日でももういちど、あのアトリエへいってみようじゃないかといったところなんです」 「それで、君、アトリエにはほかに誰もいなかった? 女の子やなんかが……?」  と、菊池も不安そうに自動車のなかから口を出す。 「いいえ、誰も見かけませんでしたね。佐川由良男というのがひとりきりで……吉田君といっしょだったからよかったようなものの、そうでなかったら薄気味悪くって……」  と、店員は顔をしかめている。加納三作が体を乗り出して、 「君、すまないがね、ひとつこの自動車に乗って、そのアトリエというのへ案内してくれないかね。ちょっと気になることがあるもんだから……」  加納博士の声はうわずっている。 「ええ、よござんす」  と、吉田というのがはやくも運転台のステップに足をかけて、 「|山内《やまのうち》さん、あんたもいっしょにいきましょうよ」 「うん、よし、じゃ、懐中電気を持ってこう」  と、山内店員もおくから懐中電気を持ってきて客席へわりこんだ。  自動車はすぐ吉田の指図にしたがって走り出す。山内店員はこわばった四人の顔を見くらべながら、 「旦那、何かあったんですか」 「いや、別に……何かあっちゃたいへんなんだが……」  菊池陽介が言葉をにごして、 「ときに君の運んだトランクだがね、いったいどのくらいの大きさ?」 「とってもでっかいやつで……俗に一番の大トランクというやつでさ」 「重さは?」 「へえ、相当重くて……トランクごと十二、三貫はあったでしょうかね。取り扱いに注意をしてくれ。上下を間違えたりしちゃ困ると、くどいほど言われましたね。ねえ、吉田君」 「ええ、なんでも、|毀《こ》われもんが入ってるんだからといってましたけどね。とにかく、薄っ気味の悪い男でしたねえ」  山内も吉田もどうやら一同の不安の内容を推知したらしく、こわばった表情のうちにも、好奇心に眼を光らせている。  自動車は間もなくあのアトリエのまえに着く。昼来ても小林恵子が身ぶるいしたほどのこのアトリエの周囲の、夜の|淋《さび》しさはまたひとしおだった。 「こっちからなかへ入りましたので……」  山内店員と吉田がさきに立って案内したのは、きょう昼間、小林恵子がつれこまれた通用門である。  そこからどやどやと踏み込んで、吉田がまっさきにアトリエのなかへとびこもうとすると、だしぬけに、 「誰か!」  と、声をかけて、真っ暗なアトリエのなかから、懐中電燈をむけたものがある。     |蜘《く》|蛛《も》を飼う男  場合が場合である。  一同がぎょっと呼吸をのんで立ちすくんだなかにも、西村鮎子はきゃっと叫んで、健三の腕に|縋《すが》りつく。  アトリエのなかの懐中電気は、せかせかとした足音をひびかせながら、一同のほうへ近づいてくると、 「君たち、いまごろ、どうしてこんなところへやって来たんだ」  と、そう声をかけながら、山内店員の懐中電燈の光のなかへ入ってきたのは、なんと警官である。一同がほっと胸をなでおろしたなかに、山内店員はその警官を知っているらしく、 「ああ、谷本さんじゃありませんか。谷本さん、何かここにあったんですか」 「ああ、君は運送店の店員だね。いま時分、どうしてこんなところへやって来たんだ」 「いえ、それが……」  と、山内店員は四人の男女を指さして、手みじかにさっきの話を繰り返すと、 「それで、ここまでご案内したんですが、谷本さん、何かあったんですか」 「いや、わたしがここへ来たのは、この近所のひとから、空家の煙突から煙が出ているのは、どういうわけかと、さきほど電話でいって来たもんだから、巡回のついでによってみたんだが……」 「それで何かありましたか」  と、建部健三が口を出す。 「いや、いま来たばかりだから。……ストーヴに火が残っていたので、消しているところへ、自動車の音がきこえたので待っていたんだ。しかし、あなたがたはどうしてまた……?」  警官の眼には疑惑のいろが深かった。  そこで菊池陽介が小林恵子の話をすると、警官は驚いて眼をまるくした。 「すると、その女がトランク詰めにされて、ここから運び出されたんじゃないかというんですか」 「いや、そんなことがあっちゃたいへんなんだが、とにかく小林恵子というのが、まだ家へかえっていないもんだから。……」 「なるほど、それじゃとにかく、もっと詳しくアトリエのなかを調べてみましょう。皆さんも手をかしてください」  ストーヴは、かなりおそくまで|焚《た》かれていたらしく、まだ石炭の|燠《おき》がのこっており、外の|木《こ》|枯《が》らしにもかかわらず、アトリエのなかはほんのりと温まっている。  警官は山内店員の懐中電気で、アトリエのなかを調べていると、きょう昼間、小林恵子の寝かされていたソファのうえに、ナイロンの靴下が片っぽだけ、蛇のようにのたくっていた。 「鮎ちゃん、鮎ちゃん、これ、恵子の靴下じゃない?」  建部健三がその靴下をつまみあげると、鮎子はまっさおになってとびのいた。 「さあ、それは、どうだか……女の靴下って、たいてい、似たりよったりのもんだから……」  鮎子はガタガタと歯の根もあわない。 「でも、きょうここで誰か女が……おそらく恵子だろうが……裸になったことだけはたしかだね」  加納博士の言葉には、深刻なひびきがこもっている。  警官はカーテンのむこうへ入っていったが、別にかわったこともなかったらしく、間もなく出て来て首を左右にふった。 「それにしても、|浩《こう》ちゃんはどうしたの。お恵ちゃんのあとをつけていったンでしょ。その浩ちゃんは……」  鮎子は健三の腕をつかんだまま放さない。そして鮎子の体のふるえが健三にまでつたわってくる。 「そうだ、恵子の弟はどうしたろう。どんな大きなトランクだって、まさかふたりは入りゃしまいが……」  冗談とも真剣ともつかぬ菊池の言葉に、一同はいまさらのように、暗いアトリエのなかで身ぶるいをする。 「いやよ。菊池さん、そんなこわいこと言わないで……」 「あっはっは、なんだい、鮎ちゃん、先生も菊池さんもどうしたんです。なんだかわれわれ、勝手に血なまぐさい|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》をえがいて、勝手に|怯《おび》えてるみたいなもんじゃありませんか。なあに、何んでもありゃしないのさ。恵子も恵子の弟も、われわれと入れちがいに家へかえって、いまごろぬくぬくと寝てるかも知れませんぜ。トランクでさあね」  健三が強いて一同の気を引き立てるようにいう。 「だって、健ちゃん、女が靴下を片っぽだけはいて、外へ出るなんてことはないわよ」 「しかし、君はいま、これを恵子の靴下かどうかわからんといったじゃないか」 「それはそうだけど……」  ふたりが押し問答をしているそばから、警官が口をはさんだ。 「どうでしょう。これはひとつ皆さんで、聚楽というホテルへ出向いてごらんになったら? じつはこのアトリエについては、ちょっと気がかりなことがあるもんですから」 「気がかりなことというのは……?」  警官の改まった調子に、加納博士が不安そうに|眉《まゆ》をひそめる。 「山内君、君はあのこと知ってるんだろう。せんにここに住んでた、津村って|画家《え か き》さんのこと……?」 「ええ、ちょっと聞いてます。だからさっきから心配しているんです」 「津村って画家がどうかしたんですか」 「それがねえ。津村一彦というんですが、ちょっとここが……」  と、警官は頭を指さし、 「変なんです。いや、ふだんは別に変わったこともなく、見たところはなんともないんで、入院するほどのこともなく、自宅で静養してたんですがね。年輩は四十くらいで、きれいな奥さんがあります。それがどうも病状が面白くないので、奥さんの郷里、岡山のほうなんですが、そこへ引っこもることになって、年末にここを引きはらっていったんですね。ところが途中でその病人が逃げ出して、いまだにゆくえがわからないんです」 「えっ、あのひと逃げ出したんですか」  と、山内店員が眼をまるくする。 「そうなんだ。それで奥さんから捜索願いが出てるんで、ひょっとすると長年住んでたところだから、こっちのほうへ立ちまわるんじゃないかというわけで、われわれもしじゅう、この家には気をくばってたわけなんです。だからさっきこの家の煙突から、煙が出てると聞いたときには、ひょっとすると、津村の主人がかえってるんじゃないかと思ったんですが……」 「山内君、君は津村ってひと知ってるンだろ?」  健三が山内店員をふりかえる。 「いえ、それが、ずうっとせんに一度だけ、それもちらりと見たきりなんで……」 「それでどう? きょうの佐川という男、津村ってひとに似てやあしなかった?」 「それはなんともいえません。津村ってひとをよく知らないんですから」 「いったい気が変だって、どういうふうに変なんですか」  加納三作が警官にたずねる。 「それがねえ」  と、警官は顔をしかめて、 「ちょっと変わってるンです。蜘蛛が好きなんですねえ。蜘蛛をうじゃうじゃするほど飼って、喜んでるンですってさあ」  加納三作をはじめとして、共栄美術倶楽部から駆けつけてきた一同は、あっと叫んで顔見合わせる。鮎子のごときは|真《ま》っ|蒼《さお》になって、健三の腕にしがみつく。  健三も呼吸をはずませて、 「そ、それじゃその男、かつてモデルの生き血を、吸おうとしたことがあるというんじゃありませんか」 「モ、モデルの血を……」  警官はその話を知らないらしく、かえって眼をまるくする。 「そうです、そうです。われわれはそのモデルから直接聞いたんです。口止めされてたと見えて、その女も、相手をどこの誰ともいいませんでしたけど、蜘蛛をうじゃうじゃするほど、飼っている男だといってました。それじゃ幽霊男というのは……?」  一同が首をちぢめて、ゾーッとしたように顔見合わせたときである。このまがまがしい雰囲気に、さらに効果をそえるかのごとく、真っ暗なアトリエの一隅から、気味の悪いうめき声が聞こえてきた。 「あっ、ありゃなんだ!」  一同はぎょっとしたようにそのほうへ振り返ると、つめたい水でもぶっかけられたような顔色である。  健三が顔色をかえてそのほうへいきかけるのを、鮎子があとへ引きもどして、 「健ちゃん、いっちゃいや! いっちゃいや! あたし、こわい」  ガタガタふるえながら、健三の指をつかんではなさない。  警官は、片手を腰のピストルにやり、片手で懐中電気を照らしながら、用心ぶかくそのほうへいったが、そこには押し入れがあるらしく、|半《はん》|間《げん》のドアがついている。うめき声はまさしく、その押し入れのなかから聞こえるのである。  警官がドアの|把手《ハンドル》に手をかけたとき、鮎子は健三の胸にしがみついて顔を埋めた。  警官はさっと扉をひらいて一歩とびのく。一同は警官の懐中電燈の光にうかびあがったものを見て、思わず大きく眼を見張った。  派手な背広にオーヴァを着た、十六、七の少年がひとり、がんじがらめに縛られたうえ、げんじゅうに猿ぐつわをはめられて、古新聞のいっぱい詰まった押し入れのなかで、苦しそうに|唸《うな》っているのである。 「鮎ちゃん、鮎ちゃん、あれ、恵子の弟じゃない!」  しかし、鮎子はこわがって顔をあげない。  それはまさしく恵子の弟の浩吉だった。浩吉はしかし、まだ|半《はん》|睡《すい》|半《はん》|醒《せい》の状態で、意識もはっきりしないらしく、夢うつつのうちに唸っているのである。    第二章 赤い浴槽  途中、東中野の恵子のうちへ立ち寄った加納博士の自動車は、いま|木《こ》|枯《が》らしの吹きすさむ暗い夜道をついて、まっしぐらに走っている。  自動車のなかの四人、だれひとりとして口を利くものはなく、物に|憑《つ》かれたような眼付きをして、まじまじと前方をみすえている。おりおり西村鮎子がヒステリーの発作を起こして、はげしくすすり泣く。 「健ちゃん、健ちゃん」  と、菊池が思い出したように、運転台に乗っている健三の肩をたたいて、 「こりゃひょっとすると、素晴らしい記事が書けるかもしれんぜ。あっはっは」  と、乾いた声をあげて笑う。 「くそ!」  と、健三はうしろをふりむいて、菊池にむかって|拳《げん》|固《こ》を振りながら、 「おれは記事なんか書かなくったっていいんだ。恵子のやつが、無事でいてくれるように祈ってるんだ」 「おや、おや、今夜はまた馬鹿に神妙なことをおっしゃるぜ」  菊池陽介はにやにやしながら肩をすくめる。 「菊池さん、およしなさい。冗談にもほどがあってよ」 「はい、はい、どうもあいすみません。やっぱりご亭主の肩を持ちたいもンかねえ。あっはっは」 「知らない!」 「菊池君、いいかげんにしたまえ」  加納博士もいやあな顔をして、じろりと菊池を振り返る。  アトリエで発見された浩吉は、それからすぐに警察へかつぎこまれたが、麻睡薬をかがされたと見えて、まだ、はっきりと|覚《かく》|醒《せい》しておらず、その口から詳しい事情を、聴きとるまでにはいたらなかったが、こうなると、いよいよ気にかかるのはトランクである。 「それじゃとにかく、|聚《じゅ》|楽《らく》ホテルへいってごらんになったら……? こちらからも出向きますし、本庁のほうへも殺人の疑いがある旨を報告して、ホテルのほうへ出張してもらいましょう」  と、所轄警察のほうでも|俄《が》|然《ぜん》色めき立って、捜査主任も張り切った。  加納博士の自動車は途中、東中野の恵子の家へ立ちよったが、恵子はまだかえっておらず、母親がひとりおろおろしていた。その母親に|荻《おぎ》|窪《くぼ》署へ出向くように伝えておいて、やっと聚楽ホテルへ着いたのは、もうかれこれ十二時で、ホテルのカウンターのまえでは、本庁から出張してきた|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部と、荻窪署から先着していた、さっきの捜査主任の警部補が、支配人を相手に何やらひそひそ話をしていた。  警部補は一同を警部に紹介すると、 「どうですか、先生、小林恵子というのは家へ……?」 「まだ帰っておりません」  加納博士はにべもなく答えると、思い出したように鮎子のほうを振り返り、 「西村君、ひとつ|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》へ電話をかけてみたら……? あっちのほうへその後、消息が入ってるかも知れない」  鮎子はホテルの電話をかりて、共栄美術倶楽部へかけてみたが、 「駄目よ、先生、まだ何の|音《おと》|沙《さ》|汰《た》もないんですって」  |蒼《あお》い顔をして力なく受話器をかける。 「加納先生」  と、等々力警部が呼びかけて、 「ここでもう一度、昨日からのいきさつをお話し願えませんか。わたしも聞きたいし、それに支配人が頑固でねえ。お客さんに無断で部屋を見せるなんて、もってのほかだというんです」 「支配人、支配人、佐川由良男というのは今夜……?」  と、健三が|訊《たず》ねた。 「まだお見えになっておりません。だから困ると申し上げておりますんで」 「警部さん、その話なら、建部君、いや、建部君より菊池君のほうがいいんだな。幽霊男にあってるのはあんただけなんだから、ひとつ君から話してあげてくれたまえ」  そこで菊池陽介が、昨日共栄美術倶楽部へ、幽霊男が出現したいきさつから、西荻窪のアトリエの一件を詳しく物語ると、支配人もしだいに不安をおぼえたらしく、 「それじゃ、いよいよあのトランクに、女の死体が入ってるというんですか。そりゃ大変だ。じゃ、ともかくご案内しましょう。まさかそんな、まさかそんな……」  支配人は十七号室の|鍵《かぎ》をとって、あたふたとカウンターからとび出して来た。  一同が二階の十七号室のまえに立ったときには、さすがにさっと緊張の気がみなぎる。鮎子はがたがたふるえながら、健三の腕をつかんで放さない。  支配人がドアを開いて、スウィッチをひねったとたん、一同の眼にぱっととびこんできたのは、部屋の隅にあけっぱなしになっている空っぽのトランク。それからベッドのうえに散乱している女の洋服、オーヴァ、シュミーズ、ズロースその他一切、靴下が片っぽだけ、ベッドの|鉄《てっ》|柵《さく》にぶらさがっている。 「あっ、だ、誰があのトランクを開いたんだ!」  支配人が絶叫した。 「マネジャー、トランクをここへ運んだとき、あんたもついて来たのかね」 「もちろんついて来ましたよ。鍵はわたしが持ってるんですから」 「そして、あんたが出ていくときには……?」 「もちろんトランクはしまってましたよ。わたしはドアにちゃんと鍵をかけていったんだ」  支配人はしだいに|興《こう》|奮《ふん》してくる。 「このドアの合い鍵はほかに……?」 「昨夜、佐川さんにお渡ししておきました。どのドアにも鍵はふたつずつあって、ひとつはお客さん、ひとつはわたしが預かってるンです」 「ほかのドアの鍵で、このドアを開くということは……?」 「とんでもない。そんな不用心なことはしてませんよ」  警部はドアの錠前を調べたが、つつき|毀《こわ》されたような形跡はなかった。 「それじゃ今夜、佐川由良男という人物は、ここへやって来たと見えますな」  それから警部は部屋のなかへ踏み込んで、ベッドのうえから洋服と|外《がい》|套《とう》を取りあげると、 「これ、小林恵子という婦人の……?」 「そ、そうです、そうです。しかし、こ、これは……?」  健三は|咽喉《のど》のつまったような声である。  警部は部屋のなかを見まわしたが、恵子のすがたはどこにも見えない。警部は部屋の側面にあるドアに眼をとめると、 「このドアは……?」 「バス・ルームに通じてるんです。この部屋の……?」  支配人も|真《ま》っ|蒼《さお》になっている。 「開いてもかまいませんね」 「ええ。どうぞ。ドアの横にスウィッチがあります」  警部はスウィッチをひねってから、ドアを開いたが、ひと眼なかを見ると、大きく呼吸を弾ませ、眼を見張り、それから急いでドアをしめると、ぎらぎらする眼で一同の顔を見まわした。それからひと呼吸いれたのち、 「誰もこの部屋へ入って来ないように。進藤君、ちょっと……」 「はっ」  荻窪署の捜査主任、進藤警部補が入っていくと、警部が何か耳にささやき、それからふたりでバス・ルームのなかに入っていって、ぴったりとうしろのドアをしめた。  バス・ルームの浴槽のなかには湯が、……いや、すでに冷えてつめたくなっているが……|溢《あふ》れんばかりに張ってあったが、その湯は真っ赤に染まっていた。そして、その浴槽のなかに小林恵子が、最後の血の一滴まで失ったように、全身|白《はく》|蝋《ろう》のような色をして死んでいた。     悦に入る幽霊男  その夜の明け方ごろのことである。  東京の……どこだかわからないけれど、とにかく東京のいっかくの、とある家のなかである。ただひとつ、化粧ダンスのうえに取りつけてある、小さな豆電球がついているだけの暗い部屋の片隅に、ガス・ストーヴが鬼火のようにほのじろくもえている。  締めきった窓の外には、|木《こ》|枯《が》らしがものすさまじい音を立てて吹き荒れているが、部屋のなかにはガス・ストーヴのもえる音だけ。眠ったように静かである。  しかし、よくよく見ると、ガス・ストーヴのまえに男がひとり、ぐったりとアーム・チェヤーに埋まっている。豆電球の光がそこまでとどかないので、どんな男だかわからないが、グラスについだ真っ赤な液体を、いかにも楽しそうになめている。  但し、諸君、恐れることはない。真っ赤な液体といっても、それはべつに血でもなんでもなく、|葡《ぶ》|萄《どう》|酒《しゅ》の一種なのだから。  男は二、三杯、真っ赤の液体をかたむけると、やおらアーム・チェヤーから立ち上がって、のろのろと化粧ダンスのまえへやってきた。化粧ダンスのうえには、鏡がひとつついている。男はその鏡をのぞきこむと、いかにもうれしそうににやにや笑った。  鏡にうつるその顔は、幽霊男にそっくりではないか。死人のような土色の肌、ベレー帽の下からバサバサと、額や|頬《ほお》にたれさがっている長髪、|隆《たか》く鋭く|彎曲《わんきょく》した鼻、黒眼鏡のしたから|嘲《あざけ》るようにぎらぎら光る眼……しかし、ただひとつちがっているのは、おととい、共栄美術倶楽部へ現われた幽霊男には、歯が三本しかなかったのに、この男には上下とも、きれいに歯並みがそろっている。  幽霊男は鏡にうつる顔を見ながら、いかにも得意そうに、にやりにやり笑っていたが、思い出したように、ズボンのポケットへ手をやった。ポケットから取り出したのは|鍵《かぎ》である。幽霊男はその鍵を見ると、いよいようれしそうにげらげら笑う。  いうまでもなく、その鍵は|聚《じゅ》|楽《らく》ホテル第十七号室の鍵なのである。幽霊男はその鍵を、ポンと鏡のまえに投げ出すと、両手をこすりあわせながら、 「うっふっふ、幽霊男出現の第一幕としては、それほど|拙《まず》い演出ではなかったようだ。さぞ、世間が騒ぐだろうて。ふっふっふ、さて……と、これからがかんじんなんだが、第二幕目はいったいどういうふうに、舞台装置を持っていったものか。……うっふっふ、うっふっふ」  薄気味わるい幽霊男の、忍び笑いに呼応するかのように、外では木枯らしがものすさまじく吹き荒れている……。     吸血画家  その翌日の各紙の社会面は、この残酷な幽霊男の犯罪記事で埋まっていた。  取りわけ建部健三が席をおく、新東京日報はその取材の広さと正確さ、時間の速さにおいて、断然他紙を抜いており、いままで社会部の厄介者扱いされていた健三は、一躍ヒーローにまつりあげられた。  健三は|血眼《ちまなこ》になって、この事件のために走りまわりながら、しかし、なぜか浮かぬ顔をして、ときどき暗いため息をついたり、ぼんやり考えこんだりする。かれはひょっとすると、恵子が好きだったのではあるまいか。  警視庁では等々力警部を中心として、この事件の捜査にやっきとなっている。  幽霊男の正体として、まず第一に眼をつけられたのはなんといっても、あのアトリエのもとの持ち主津村一彦である。一彦は去年の暮れに、妻の恭子の兄の安田某氏につきそわれ、恭子の郷里の|倉《くら》|敷《しき》へ引きあげるため、東京駅から汽車に乗ったが、品川でたくみにふたりをまいて姿をくらまし、いまだにゆくえがわからないのである。  幽霊男の事件が起こってから、妻の恭子が倉敷で、警察の取り調べに対して答えたところによると、一彦には吸血癖があったというのだ。但し、それはそれほど凶暴なものではなく、少量の血を|舐《な》めることによって満足しており、恭子がおりおり、その血を供給していたというのである。  恭子はむろん、それを恐ろしく、浅ましいことに思いながらも、かくべつ生命に危険をおよぼすほどのこともないので、これも運命と|諦《あきら》め、ひとにも語らなかったという。  しかし、この秘密が新聞で|暴《ばく》|露《ろ》されると、世間の反響は大きかった。たとえ生命に危険をおよぼすほど、多量のものを要求されなかったにしろ、そのような恐ろしい吸血鬼を、いかに|良人《お っ と》とはいえなぜ黙っていたか。また当局もそのような狂人を、なぜ厳重に世間から、隔離しなかったかと、彼女ならびに当局に対する非難は大きかった。  警視庁では全国に手くばりをして、津村一彦を捜索するいっぽう、またべつの角度から、幽霊男の捜査に力をつくすことを忘れなかった。それというのが、幽霊男の犯行が、狂人としては、あまりうまく計画されていたからである。ここに幽霊男の犯行の跡をたどってみよう。  かれはまず共栄美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》へ現われて、モデルをひとり契約した。それからその夜、聚楽ホテルへおもむいて、翌晩の部屋を予約し、トランクがひとつ来ることを予告している。  さて、その翌日、|西《にし》|荻《おぎ》|窪《くぼ》の駅まで恵子を出迎えて、これをアトリエへつれこんでいるが、この日のことについては多くの証人もあり、またのちに麻睡薬から|覚《かく》|醒《せい》した、恵子の弟の浩吉も証言している。  さて、アトリエのなかで幽霊男は、恵子を裸にしたうえで、麻睡薬を|嗅《か》がせて眠らせた。このことは恵子を尾行して、アトリエのなかに忍びこみ、カーテンのむこうにかくれていた、浩吉の証言によって明らかである。  浩吉がもれ聞いたところによると、そのとき幽霊男ははっきりと、恵子の血を要求したというのである。  しかし、浩吉の証言もそこまでしか役に立たない。恵子を眠らせた直後、幽霊男は浩吉の存在に気づいたらしく、いきなりカーテンのなかに躍りこんできて、恵子を眠らせたと同じ薬で浩吉を眠らせてしまった。だから浩吉はその後の姉の運命は、ひとに聞くまで知らなかったのである。  幽霊男はそのあとで、かくしておいたトランクに恵子を詰め、それを聚楽ホテルまで送らせている。いろんな点から考えて、恵子が殺されたのはホテルでのことらしいから、トランク詰めになっているあいだ、恵子はまだ生きており、眠っていただけのことと思われる。  そこに疑問が残るのだが、幽霊男はなぜ危険をおかしてまで、ホテルへ恵子を運ばなければならなかったのか。なぜアトリエで殺さなかったのか。幸か不幸か、恵子はホテルの一室におさまるまで、眼がさめなかったからよかったものの、途中でうめき声でもあげられたら、せっかくの計画も水の泡になるではないか。  しかも、ふしぎなのはただそれだけではない。あのトランクには、ところどころ息抜きの穴があけてあるのだから、幽霊男にとっては、恵子を生きながらホテルへ運びこむことが、必要かつ重大なことだったらしい。それはなんのためか。  それはさておき、トランクが無事に、聚楽ホテルの十七号室におさまったのは、一月二十三日の午後五時ごろのことだったが、そのあとで、幽霊男がやってきたことは疑いをいれない。  ホテルでは誰ひとりとして、二十三日の晩、幽霊男を見たものはないといっているが、合い鍵をもって十七号室へしのびこんだところを見ると、佐川由良男、即ち幽霊男のしわざとしか思えない。ただ、ふしぎなのはトランクを開くとき、錠前をぶちこわしていることである。幽霊男は途中でトランクの鍵を紛失したのか……。  それはさておき、幽霊男は裸体の恵子を浴槽にかつぎこむと、そこで|頸動脈《けいどうみゃく》を切断している。そのとき幽霊男が吸血したかどうかは不明だが、血が浴槽のなかに流出しているところをみると、恵子の心臓は活発に鼓動していた証拠である。だから恵子の死因は睡眠中の血の喪失によるものなのであった。  この残酷な犯行が世間を驚倒させぬはずはない。しかも犯人はまだあがらず、正体さえもはっきりつかめないのだ。  ひょっとすると、幽霊男はどこかであの無気味な眼を光らせて、第二、第三の犠牲者をねらっているのではあるまいか……。     準備完了  共栄美術倶楽部はこのところ大|繁昌《はんじょう》で、マネジャーの広田圭三は大ホクホクだ。  世の中は妙なもので、あんな気味のわるい事件が起こったのだから、さぞかしさびれるだろうと思いのほか、共栄美術倶楽部も聚楽ホテルも、その後、押すな押すなの客脚で、連日大にぎわいを呈している。  きょうはあの事件から、ひと月ちかくもたった二月十五日。  ひとしきりヌード・モデルを求める客で、たてこんでいた共栄美術倶楽部も、夜ともなればやや落ちついて、あの薄ぎたない六畳にとぐろをまいているのは、この倶楽部に属する七人のモデルと、猟奇クラブの三幹部、加納博士と菊池陽介、建部健三の三人だけ。  それでも、せまい六畳にはおさまりきれないから、はみ出した三、四人のモデルは、事務所の方で、広田支配人や奥村事務員とともに、火鉢をかこんで腰かけている。 「先生、先生」  と、広田支配人が、いまやってきたばかりの加納博士をつかまえて、 「一月の猟奇クラブの例会は、とうとうお流れになっちまったでしょう。それについて会員諸氏から、だいぶ不平の声が起こってますぜ。幹部怠慢だというンでね」  何かあるとうるおうとみえて、広田支配人は三幹事の顔さえ見れば|煽《せん》|動《どう》する。かれには恵子の死など、|蠅《はえ》一匹死んだほどにも思えぬらしい。 「ふむ、一月はとうとうお流れになっちまったな。あんなことが起こったもンだから……。まあ、どっちだっていいやね」  加納博士はいささか大儀らしい口振りだ。 「どっちだっていいってことはありませんぜ。一月がお流れになったかわりに、二月はうんと盛大にやってほしいって、会員諸氏のご希望ですからね」 「一月は何も、お流れになりゃしなかったじゃないか」  菊池陽介がぬけぬけとした顔でいう。 「あれ、それ、どういうンです。何かあったンですか」 「あったとも、あったとも。大ありだ。西荻窪のアトリエと、聚楽ホテルで、とんでもない催しごとをやって、世間をあっといわせたじゃないか。あっはっは」  菊池陽介はのんきらしく笑っているが、それを聞くと一同は、ドキリとしたようにかれの顔を見直した。西村鮎子は憎らしそうに、菊池の顔をにらんでいる。加納博士と健三は、いやな顔をして眼をそらした。 「いけませんや、菊池さん、うっかりそんなことが警察の耳に入ると、とんでもないことになりかねませんぜ。そうでなくても、だいぶにらまれてるンだから」 「あっはっは、ごめん、ごめん、ぼくの言いたかったのはね、マネジャー、ああいう事件にくらべると、われわれのプランなんて、じつに貧弱なもンだということなのさ。どんなに智恵をしぼったところで、とても、ああは会員諸氏のどぎもを抜けない」 「当たりまえでさ。あんなにどぎもを抜かれてたまるもンですか」  奥村事務員も不平らしく口をとがらせる。あとは誰も口をきかず、ちょっと|気《き》|拙《まず》い沈黙が流れたが、それを救うように加納博士が、 「それはそうと、坊や、幽霊男の一件はその後どうなんだい。新聞でもちかごろ扱わなくなったようだが、結局、迷宮入りというわけかね」 「そうですねえ」  健三は気乗りがしない調子で、 「いったい津村一彦という人物ですがね。これが正真正銘の、狂人であることはもう間違いはないんです。その狂人が厳重な警察の追究の手をのがれて、そういつまでも、かくれていられるというのがおかしい。だから、あの事件ののち、どこかで死亡してるンじゃないかという説があるンです」 「すると、やっぱり幽霊男は、津村画伯だということになってるンだね」 「だいたい、その線じゃないかと思いますね」  そのとき、西村鮎子が|膝《ひざ》をすすめた。 「あたしねえ、きょう|浩《こう》ちゃんに注意してきたのよ」 「浩ちゃんて、恵子の弟かい」 「ええ、そう、あの子、なにがなんでも幽霊男を見つけ出し、姉さんのかたきを討つんだっていきまくンです。だから、あたし、そんな危っかしいことお|止《よ》しなさい。相手は化物みたいなやつだから、触らぬ神に|祟《たた》りなしよって意見してきたの。ほんとに幽霊男が津村って男で、どこかで死んでくれてるンだといいわねえ」 「鮎ちゃん、その話はもう止して。あたし、あのときのことを思うとゾッとするわ」 「ほんとに幽霊男の話だけはごめん、ごめん。あんたたちは会ってないからいいけれど、あたしとお美津ちゃんは見てるでしょ。あの男を……だから気持が悪いのよう」 「そうよ。あのとき、あたしにしろ、お貞にしろ、あの男に名指されてたら、恵ちゃんの代わりにやられるとこだったんだもンね」  幽霊男がはじめてここへ現われたとき、恵子といっしょにいたお美津とお貞は、そのときのことを思い出したのか、ゾッとしたように肩をすくめる。  しぜん一座の話題がとぎれて、身のすくむような沈黙のひとときが流れたが、突然、その沈黙をやぶって、カーテンのむこうの、モデルのヌードを見る部屋から聞こえてきたのは、骨を刺すようなキーキー声である。 「うっふっふ、うっふっふ、共栄美術倶楽部のモデルの皆さん、今晩は」 「あら、あの声、誰?」  鮎子が叫んだのにこたえるように、 「わたし、幽霊男」  陰にこもった無気味な声に、 「きゃっ!」  と、モデルたちはいっせいに抱きあい、顔を伏せ、男たちはさっと総立ちになる。  建部健三は二、三人、モデルのうえをとびこえて、あいのカーテンをまくったが、そこにはしかし人影はなく、隅のほうにテープ・レコーダーが、無気味な音を立てて|廻《かい》|転《てん》している。 「畜生!」  建部健三があわててこれを止めようとするのを、うしろから加納博士が腕をつかんだ。 「そのままにしときたまえ。ついでのことに終わりまで聞こう」  物に|憑《つ》かれたような眼つきをして、立ちすくんでいた男たちの足下で、テープ・レコーダーは無心に廻転をつづけるのである。 「わたし、幽霊男……わたしの演出による第一幕が、どんな素晴らしい効果をあげたか、皆さん、よくご存じでしょう。さて、このたびいよいよ、第二幕目の準備完了いたしましたから、ちかく、共栄美術倶楽部のモデルのかたに、共演をお願いして、またまた素晴らしい効果をあげたいと思っております。その節はなにとぞよろしく。では、今晩はこれで……うっふっふ、うっふっふ!」     疑問の人  何しろその席には、建部健三という新聞記者がいたのだからただではすまない。幽霊男のこの宣言は、あのまがまがしいテープ・レコーダーの写真とともに、翌日の新東京日報に掲載されたが、その宣言がどんなに世間をおどろかしたか、いまさらここにいうまでもあるまい。  幽霊男にねらわれるのが、共栄美術倶楽部所属のモデルに、限定されているあいだはまだよいけれど、相手は気の狂った吸血鬼なのだ。いつ見境もなく、誰におそいかかってくるかしれたものではない。  そうなると、世間のわかい女という女は、誰ひとりとして安全というわけにはいかないだろう。いつ幽霊男のおめがねにかなって、血みどろないけにえとして、あの残忍な悪魔の祭壇へ、捧げられないとも限らないのだ。  新東京日報の記事がそんなふうに警告を発したから、そうでなくとも第一の事件の恐ろしさに、おびえきっていた世間のわかい娘たちは、ふるえあがって恐れおののいた。その時分、日が暮れるとわかい娘たちの往来が、ばったり途絶えたといわれるくらいである。  警視庁でももちろん捨ててはおかなかった。あのテープ・レコーダーはただちに押収され、げんじゅうにその出所が追究された。  また、担当の等々力警部によって、テープ・レコーダーがそこへ持ちこまれた前後の事情についても、詳しく調査されたが、何しろまえにもいったとおり、第一の事件があって以来、共栄美術倶楽部は|千客万来《せんきゃくばんらい》の|繁昌《はんじょう》なのだ。  ことに当日はひるすぎから夕方へかけて、押すな押すなの客があり、それらの客はみんな一応あの部屋へ入り、モデルのヌードを見ている。  それらの客のうち、モデルが気にいって契約していった連中は、住所氏名がひかえてあるから、だいたいまちがいなかったが、不思議なことにはひとりだけ、あとになって調べてみると、該当番地に住んでいないものがあった。  それは宮川美津子を契約していった客で、名前は山田太郎といい、そのときの契約では、二、三日うちに、電話で時日と場所をうちあわせるから、まちがえずに出張してほしいというのであった。  その山田太郎なる人物が、該当番地に住んでいないとわかると、|俄《が》|然《ぜん》、捜査陣は色めきたった。山田太郎なんてもちろん変名にちがいない。そいつこそ幽霊男ではあるまいか。  そこで当の宮川美津子はいうにおよばず、支配人の広田圭三も、山田太郎なる人物の人相風態について、げんじゅうに取りしらべられたが、不思議なことにはふたりとも、その人物についてあまりよく記憶していなかった。  何しろ何度もいうとおり、その日はとくに客が多くて、西村鮎子とともに、ここのモデルの|双《そう》|璧《へき》といわれる宮川美津子は、客の所望で何度ヌードを見せたかわからない。  それらの客のなかには、契約していったものもあるが、ただひやかしだけでかえっていったものも少なくなかった。だから、そのうちのどれが山田太郎と名のる人物だったか、美津子も|識《し》らず、広田圭三もおぼえていないというのである。  これには捜査陣も失望したが、しかし、その山田太郎なる人物が、かならずしも幽霊男であるとは限らない。このいかがわしい倶楽部にくる客には、本名をかくしているのがよくあるし、それにひやかしだけでかえった連中のなかには、いちげんの客もあり、名前もところもわからぬものが少なくなかった。  こうして、結局、あのテープ・レコーダーが、いつ、なにびとによって持ちこまれたのかそれもわからず、また、テープ・レコーダーそのものからしても、なんの手がかりもえられなかった。  しかし、あのテープ・レコーダーが、たくみに時計じかけで廻転をはじめるようになっていたこと、また、それをひとめにつかぬ、部屋の片隅においてあったことからして、それが何者にしろ、かなり機械装置に精通していること、また、この共栄美術倶楽部の内部に、あかるいものであることが察しられるのだ。  第一の事件の犠牲者といい、さてはまた、こんどの事件といい、こうしてうすぎたない共栄美術倶楽部は、がぜん、世間注視の的となって浮きあがってきた。 「健ちゃん、どうなのよう、幽霊男の一件、まだなんの手がかりもないの?」  あのテープ・レコーダーの事件があってから数日のちのこと、共栄美術倶楽部のモデル|溜《だ》まりには、今夜もまた、建部健三や菊池陽介を中心として、五、六人のモデルがとぐろをまいている。  加納博士は手術があるとかで見えなかった。 「ふむ、おあいにくさまだがね、まだまるきり|五里霧中《ごりむちゅう》ってところらしい」  西村鮎子の質問にこたえる健三の言葉には、どういうものか元気がなかった。 「警察もなにをぼやぼやしてンだろう。テープ・レコーダーって、あんなたしかな証拠があるのに、犯人がわからないなんて……」  いまにも泣き出しそうな声を出すのは、いうまでもなく宮川美津子である。  むりもない。山田太郎という、疑問の人物にみこまれた美津子は、ひょっとすると、幽霊男にねらわれている第二の犠牲者というのは、自分ではあるまいかと、ちかごろ生きたそらもないのである。 「そりゃ犯人にしてみれば、あのテープ・レコーダーをのこしておいたところで、なんの手がかりもないという、確信があったうえでやったことなんだろうからね。こいつとてもひとすじなわでいくやつじゃないよ」  金縁眼鏡の菊池陽介が、あいかわらずのんきらしいくちぶりだ。 「いやよ、菊池さん、ひとのことだと思って、そんなのんきなことをいってるもんじゃないわ。少しはお美津ちゃんの身にもなってあげてちょうだい」  |鞭《むち》をたたきつけるように、強い調子できめつけるのは、美津子のライバル、西村鮎子である。 「あんた、少し|不《ふ》|真《ま》|面《じ》|目《め》すぎてよ」 「はい、はい、どうもすみません」  神妙に頭をさげながらも、陽介はにやにやわらっている。  ひとを食ったような陽介のその態度は、不安におののく一座の空気のすくいとなるどころか、かえって逆におびえがちな女の心を、いっそう不安と恐怖にみちびくのだ。  西村鮎子は憎らしそうに、しゃあしゃあとした菊池の横顔をにらんでいる。ちょっと白けた一座の空気をすくうように、建部健三がかるい|咳《せき》|払《ばら》いをして、 「ときにお美津、おまえほんとに、山田太郎という男をおぼえてないのか」 「それがねえ、あの日、あたしとても疲れてたのよ。着物をぬいだり着たり、何べんしたかわからないわ。それでしまいにはどうでもいいような気になって、ろくすっぽ客の様子にも気をつけてなかったの。だけど……」  と、美津子は急に事務室のほうをふりかえって、 「ねえ、マネジャー、いつか来た佐川幽霊男って男ね。マネジャーはあの男の左の小指に気がつかなかった?」 「いいや、気がつかなかったよ。だってあいつ真っ黒な手袋をはめてたもの」 「お美津ちゃん、左の小指がどうかしたの」  |膝《ひざ》のりだしたのは貞子である。なぜか貞子は真っ蒼になっている。     |人《ひと》|身《み》|御《ご》|供《くう》 「ううん、それがね、誰だかおぼえてないんだけど、あの日あたいのヌードを見ていった客のなかにひとり、このひと、ひょっとしたら左の小指が、ないんじゃないかと思われる男があったのよ。それがどんな男だったか、よくおぼえてないんだけど」 「まあ!」  貞子はいよいよ|蒼《あお》くなって、 「だってはっきりわからなかったの? 左の小指があるかないか。……」 「ええ、だって、そのひと手袋をはめてたんだもン。ところがその手袋をはめた手で、そいつったら、あたいの体をなでまわすようにするンだよ。そンとき、小指のさきが妙にふにゃふにゃしてるような気がして、このひと、ひょっとしたら小指がないか、それとも小指が半分かけてるンじゃないかと思ったことがあるの。ええ、たしか左の手だったわ」 「それで、そいつがどんな男だったかおぼえてないの」  健三がたずねた。 「ええ、ちっとも。あの日のあたいはよっぽどどうかしてたのね」 「だけど、お貞ちゃん、おまえ、左の小指がないと聞いて顔色かえたようだが、なにかそれに心当たりがあるのかい?」  健三にたずねられて、お貞はゾーッとしたように、モデルだまりを見まわした。眼がうわずって、唇がわなわなふるえている。 「お貞ちゃん、あんた何か知ってることがあったら言ってちょうだい。これ、冗談ごとじゃないのよ。あたいたち全体の、命にかかわる問題なんですからね」  鮎子にせがまれて|都《つ》|築《づき》貞子は、おびえたように身ぶるいをする。 「あたしねえ、何もかくしてたンじゃないのよ。いまお美津ちゃんの話をきいて思いだしたンだけど……」  と、貞子はものに|憑《つ》かれたような眼で、一同の顔を見まわしながら、 「あたし、ずうっとせんにいちど、津村一彦じゃないかと思われるえかきさんの、モデルに雇われたことがあるのよ」  一同はぎょっとしたように貞子の顔を見る。 「津村一彦じゃないかと思われるって、はっきり名前おぼえていないのかい?」  さすがに菊池もまじめになる。 「ええ、だって、もう五、六年も前のことで、あたしがはじめてこの稼業に入ってから、間もなくのことですもの。それに場所も|西《にし》|荻《おぎ》|窪《くぼ》じゃなくて、なんでも目黒のほうだったのよ。いまじゃどのへんだったか、はっきりおぼえてないンだけど」 「ああ、津村一彦もいちじ目黒のほうに、住んでたことがあるそうだよ」  健三が言葉をはさんだ。 「まあ!」  貞子はいよいよ顔色をうしなって、 「それじゃ、やっぱりあいつだったかもしれないわね」  と、ゾーッとしたように肩をすくめる。 「だけど、お貞ちゃん、その男がいったいどうしたのさ」  鮎子がじれったそうにあとをうながす。美津子はおびえて口もきけない。 「あたしねえ、そのじぶん、世話になってた周旋屋の小母さんにいわれて、その家へ出向いていったのよ。目黒のとってもわかりにくいところだったわ。いまもいうとおり、この稼業に入ってから間もなくのことでしょ。不安だし、きまりが悪いし、まあ、いってみれば、おっかなびっくりだったのね。だけど、向こうへいくとしとやかそうな奥さんがいらしたので、まあ、いくらか胸を|撫《な》でおろしたってわけよ。ところがえかきさんとふたりでアトリエへ入って、いろいろポーズをつけて……むろんヌードよ、えかきさんが仕事をはじめたのはよかったけど、そのうちだんだん怪しくなってきたの」 「怪しくなってきたって?」 「えかきさんの息使いが荒くなってきたのよ。それにあたしを見る眼が妙に血走ってきて……いまならそんなことなんでもない。そんなことがあったら、かえってこっちから誘惑してやるくらいなもンだけど、そのじぶんはまだうぶだったでしょ。思わず体の線がかたくなったのね。そしたらそいつが、そんなことじゃいけない。もっと体をやわらかくしなきゃ……と、そばへよってきて、ポーズをつけなおすような|恰《かっ》|好《こう》をして、いきなりここンところへかぶりついてきたの」  貞子はふるえる指で自分の|頸動脈《けいどうみゃく》を指さす。一同はぎょっとして口も利けない。 「だけど、そンときあたしはこの男、じぶんの貞操を奪おうとしてるンだと思ったの。いいえ、こんどお恵ちゃんのことがあって、津村一彦って男のことが評判になるまで、そう思いこんでたのよ。まさかねえ、血を吸うなんて。……」  と、貞子ははげしく身ぶるいをして、 「しかし、そのじぶんはまだ純だったでしょ。体もいまみたいによごれてなかったわ。だから必死になって抵抗したの。そいつ左手であたしの口をふさいでたンだけど、その左手の小指にいやというほど|噛《か》みついてやった。それこそ小指を噛みきるくらい。……」 「それで、ほんとうに小指を噛みきったの?」  鮎子がふるえる声でたずねる。 「いいえ、そこまではわからない。その男、悲鳴をあげて離れたでしょ。それにあたしも口が利けるようになったもンだから、大声あげて助けをもとめたの。そしたら奥さんがとんできて、その場の様子で事情がわかったのね。あたしにいろいろあやまって、それこそ泣くようにしてあやまって、|沢《たく》|山《さん》の口止め料をくれたの。そンとき相手が生き血を吸おうとしてたンだと知ってたら、あたしだって、そのままじゃすまさなかったわ。警察へ訴えて出たわね。だけど、ただ、手ごめにしようとしたンだとばかり思ってたもンだから。……」 「しかし、いまから考えると、そいつ、血を吸いにかかったらしいというンだね」  菊池陽介が珍しく深刻な顔をしていった。 「ええ、そうなの。そのじぶんからちょっと妙だと思ってたンだけど、こんど津村って男の話をいろいろ聞くとてっきりそうじゃないかと思われるの」 「すると津村一彦って男は、そのときお貞にかまれた|疵《きず》がもとで、左の小指が半分かけてるかもしれないというンだね。健ちゃん、そんな情報入ってない?」 「さあ、そこまでは聞いてないけれど……」 「いいえ、そうよ、そうよ、きっとそうよ。そしてそいつがあたしを|狙《ねら》ってるのよ。あたしいまに、幽霊男に生き血を吸われて死んでしまうのよ」  美津子はとうとうヒステリーを起こして、狂ったように泣きだしたが、誰もそれを慰めるものはない。  いや、慰めようにも言葉がなかったのだ。  いつの間にやら一同は、幽霊男に対して、何かしら、超自然的な存在ででもあるかのような恐れをいだき、その怪物にみこまれた宮川美津子の運命は、ちょうど白羽の矢の立った|人《ひと》|身《み》|御《ご》|供《くう》の娘のように、もはや人間の力をもってしては、なんともしがたいものであるかのような、錯覚にとらわれたのである。  いや、それは錯覚ではなかったようだ。  げんにその夜、あわれな宮川美津子は、まんまと幽霊男の|毒《どく》|牙《が》におちいったのだから。     怪運転手  江戸川べりで都築貞子をおろすと、あとは菊池陽介と宮川美津子のふたりきり。  自動車のこころよい震動に身をまかせて、わかい男と女が、肩と肩、|膝《ひざ》と膝とをくっつけあっていると、どうかすると、ほのかな衝動をかんずるものだが、今夜の美津子はぜんぜんそんな気になれない。  暗い|音《おと》|羽《わ》の通りへさしかかったとき、 「おい、このままふたりで、どこかへ泊まりにいこうか」  と、菊池が冗談みたいにささやいたが、美津子は|蝋《ろう》|細《ざい》|工《く》みたいな顔をしたまま返事もしなかった。この男からこういう誘いをうけて、そのままふたりで怪しげな家へ、自動車をむけさせたことは珍しくないのだが。…… 「あっはっは、馬鹿だねえ。何をそんなに考えこんでるのさ。健ちゃんと鮎子のやつは、いまごろうまいところへしけこんでるぜ」 「いや!」  美津子は鋭い声でいって、憎らしそうに菊池の横顔をにらむ。  こんなにおびえきっている場合でも、健三と鮎子のことをいわれると、美津子は一種のいらだちを感ずるのだ。 「あっはっは」  菊池はのんきらしく笑うと、たばこを出して一本つけ、袋ごと美津子のほうへさしだした。 「あたし、いらない!」  美津子は強い声でいったのち、 「あんたはのんきでいいわねえ」  と、深い|溜《た》め息をつく。 「何をいってるンだ。おまえのために、わざとのんきらしく振舞ってみせてるンじゃないか。それともおまえは、もっとおれがおびえてたほうがいいのかい」  菊池としては珍しくまじめな言いぐさである。 「すみません。そういえばそうだけど。……あたし、何んだか心細いわ」 「心配するこたあないよ。警察だってそういつまでも、手をつかねていることはあるまいし、それに、第一、山田太郎という男が、あいつだときまってやアしないじゃないか」 「だって、あの小指のこと……」 「お貞が何をいうことか。そんなこと気にしちゃきりがないよ。まあ、気を大きく持ってるンだね」 「菊池さん、あんたがそういってくれるの、有難いけど、あたしやっぱり、こんどは自分のばんじゃないかと思うのよ」  美津子の声は涙ぐんでいる。  さすがに菊池もあわれになったのか、やさしく女の肩を抱いてやりながら、 「馬鹿だなあ。そんな取り越し苦労はよしたがいい。それよりねえ、美津子」 「ええ。……」 「おまえ、誰かたよりになるような人はないの。誰かおまえを|護《まも》ってくれるような男さ。そりゃおれも気をつけてあげるけど、四六時ちゅう、おまえさんについてるってわけにゃいかないからね」 「ええ。……」  言葉をにごす美津子の|脳《のう》|裡《り》に、そのとき、ふっとふたつの顔がうかんだが、そのひとつというのは、幽霊男の最初の犠牲となった、小林恵子の弟の浩吉である。  おびえきった美津子はおととい浩吉を訪れて、幽霊男のつぎの犠牲者は自分らしいと打ち明けて保護をもとめた。|復讐心《ふくしゅうしん》にもえる浩吉は、一も二もなくそれを引きうけてくれたが、しかし、あんな子供に何ができるだろうと思うと、それを口に出すさえおもはゆくて。……  美津子の脳裡にうかんだもうひとつの面影というのは、建部健三である。美津子は健三の胸にすがりついて、保護をもとめたかったのだ。しかし、その健三には鮎子がついている。  美津子はきっと唇をかんで、 「そんな男ってないわ。そんなひとがあるくらいなら、あたしこんなに心細いおもいをしなくともすむんだけれど。……」 「あっはっは、まあいいさ。おれも気をつけてあげるし、警察でもほっときゃしないよ。まあ、当分、たちの知れない男とのつきあいは、御免こうむるんだね」 「ええ」  美津子は溜め息をついて、 「その点、あなたならいちばん安全ね。幽霊男がはじめて|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》へやってきたとき、あんたはあたしたちといっしょにいたンだもン」 「あっはっは、そういうわけだ」  菊池が笑いながら、女の肩を抱いて引きよせようとしたとき、自動車ががくんと大きく揺れて、そのままぴったりとまってしまった。 「おい、どうしたンだ」  あやうく美津子と鉢合わせをしそうになった菊池が、おこったように声をかける。 「へえ、どうもすみません」  運転手は左手をハンドルにかけたまま、右手でスターターをいじっている。しかし、自動車はなかなか動きそうにない。気がつくとそこは|護《ご》|国《こく》|寺《じ》わきの暗い、|淋《さび》しい場所である。十一時をすぎたその時刻には、人間はおろか、自動車のいききもいたってまれなのだ。  目白に住んでいる菊池陽介は、江戸川べりに家のある都築貞子と、池袋のアパートにいる宮川美津子を送っていこうということになって、神田の通りを流していた、この自動車を拾ったのだが。…… 「おい、何をぐずぐずしてるンだ。はやく自動車をやらないか」  |癇癪《かんしゃく》を起こした菊池陽介が、運転台へ身をのりだそうとしたとき、だしぬけに美津子がその腕をつかんだ。その把握があまり強かったので、菊池はびっくりしたように、美津子の顔をふりかえる。 「えっ、何? ど、どうかしたの?」  しかし、美津子は口もきけない。唇までまっしろになって大きく視ひらかれた眼は|釘《くぎ》|付《づ》けにされたように、ある一点を凝視している。その視線を追っていって、菊池もとつぜんはげしく体をふるわせた。  ハンドルにかけたその運転手の左手には、小指が半分しかなかった。第二関節からうえが、食いきられたように欠けているのである。 「お、おい……」  と、ふるえをおびたしゃがれ声で、 「おまえ、その左の小指はどうしたンだ」  菊池がたずねたときである。運転手がゆっくりこちらをふりかえった。右手にピストルを握っている。 「あっ、何をする? おまえは誰だ?」  しかし、相手は答えない。大きな|塵《ちり》よけ眼鏡のおくで、凶暴な眼がわらっている。鳥打ち帽子とマフラで顔はほとんどわからない。  菊池陽介の鼻先で、ピストルの|曳《ひ》き|金《がね》がひかれた。 「きゃっ!」  菊池はおしつぶしたような悲鳴をあげたが、とび出したのは鉛の|弾丸《たま》ではなく、何かしら|甘《あま》|酸《ず》っぱいにおいのする液体が、霧のように菊池の鼻孔をおそった。 「あっ、な、なにをする!」  菊池は両手でそれを払いのけようとする。  しかし、二度三度、やつぎばやに曳き金をひかれるにしたがって、しめきった車体のなかに、むせっかえるようなにおいの霧が充満して、菊池の全身からはしだいに力が抜けていく。  運転手は塵よけ眼鏡のおくでにやりと笑うと、ゆうゆうとして、ピストルのつつぐちを半分死んだようになっている美津子にむける。  それから二分ののち、自動車はなにごともなかったように、真っ暗な夜道を走りだしていた。ぐったりと眠りこけている菊池と美津子を座席にのせて。……  しかし、さすがの怪運転手も、自動車がそこにとまっているあいだに、神田から自転車であとをつけてきた少年が、後部にあるトランクに、すばやくもぐりこんだとは、夢にも気がつかなかったようだ。     |繃《ほう》|帯《たい》の男  それからどのくらい時間がたったのか。……まだ、夜が明けきっていないことだけはたしかなのだが。……  窓もドアもしめきった、十二畳ばかりの洋間の片隅に、ガス・ストーヴが青白い|焔《ほのお》をあげている。  その部屋の中央には、みごとな|虎《とら》の毛皮がしいてあり、その毛皮のうえに、うまれたときのままのすがたで、女がぐったり眠っている。いうまでもなく宮川美津子である。  美津子はそれほど美人ではないが、そのヌードはこのうえもなく美しい。あざやかな虎の|斑《ふ》のうえによこたえた曲線には、なやましいほど官能的なものがある。  この美津子のちょうどまうえに、外科手術のベッドのうえについているような、強い照明がついていて、そこから発する末広がりの強い光線が、残酷なまでにしろじろと、美津子の裸身を浮きあがらせている。  末広がりの光線のそとは、鬼火のようなガス・ストーヴの焔をのぞいて、いっさいほのぐらい|闇《やみ》である。  しかし、いっぽうの壁ぎわに、つめたい光を反射している、鏡つきの化粧ダンスといい、あのガス・ストーヴのいちといい、いつか幽霊男がひとりで悦にいっていた、あの部屋にたいへんよく似ているではないか。  それでは幽霊男はどこにいるのか。……  ああ、いるいる!  末広がりの光のアーム・チェヤーに、まっ白な顔がひとつ宙にういている。まっ白な顔といったのは繃帯のせいなのだ。そいつは頭から顔から、いちめんに繃帯をぐるぐる巻きにして、見えるものといってはふたつの眼と鼻孔と唇だけ。  例によってその唇へ、グラスについだ真っ赤な液体をはこんでいる。どういうものかその両手には、真っ黒な手袋をはめている。  真っ黒といえば身につけているのも、ビロードのように|艶《つや》のある黒さの、長いガウンである。その|膝《ひざ》のうえにおいているのは一個のカメラ。  幽霊男はさっきから、無心に眠っている美津子に、さまざまなポーズをとらせて、カメラにおさめたのである。  とつぜん、部屋の一隅でギリギリとひくい音がしたかと思うと、ポッ、ポッ、ポッと、鳩時計が三つ鳴った。夜光塗料をぬった鳩時計の文字盤が、ちょうど三時を示している。  その鳩時計の音に夢をやぶられたのか、それとも時間がきていたのか、虎の毛皮に寝そべっている美津子が、ふいに大きく吐息をついた。  繃帯のおくで幽霊男の眼がぎろりと光る。  美津子はつづけさまに二、三度、大きく息を吸っていたが、やがてぼんやり眼をひらく。しかし、眼をひらいたものの、美津子の意識はまだはっきりもどっていない。  |眩《まぶ》しそうに眼をパチパチさせながら、いそいで両手で顔をおおおうとしたが、そのとき、はじめてむき出しになった両腕から、じぶんがいま裸にされていることに気がついた。  とたんに美津子ははっと意識をとりもどし、あわてて床のうえに起きなおる。  |瞳《ひとみ》がはげしくおののいて、むっちりとしたふたつの乳房が|嵐《あらし》のようにゆれている。こわごわあたりを見まわす美津子の視線が、ふと暗がりにういている、あのまっ白な顔をとらえた。美津子のうつくしい曲線が、とたんにきゅっとかたくなり、息の根がとまったのではないかと思われるほど胸の動揺がしずまった。 「誰……? そこにいるのは……?」  美津子の眼はいまにも飛びだしそうである。声もしゃがれてふるえている。  繃帯の男はカメラを持ったまま、ゆっくりアーム・チェヤーから立ちあがって、末広がりの光線のなかへ出てきた。その気味わるい姿かたちが、また美津子をおびえさせ、彼女は気が狂いそうである。 「わたしだよ。山田太郎だ」  低い、いんきな声である。 「このあいだ契約したね。契約金も払っておいた。今夜、思う存分君のうつくしいヌードを写真にとらせてもらったよ」 「どうして……どうして、こんなことをするの。眠り薬をかがせるなんて、|卑怯《ひきょう》だわ。なぜ堂々と呼びに来ないの」 「警察がうるさいんでね」  こともなげな一言だったが、その言葉こそ宮川美津子を、気の狂いそうな絶望にたたきこんだのだ。 「あんた、菊池さんをどうしたの」 「おまえの連れか。あいつは途中でおっぽり出してきたよ」 「あんた……あの男なの……? 幽霊男なの?」 「うっふっふ、お察しのとおり」 「いや!」  美津子がすすり泣くような声でうめいた。 「あたし、ヌード写真をとらせる契約はしたけれど、それ以上の約束はしなかったわよ。あたし、かえしてもらう」  しかし、美津子は腰が立たない。 「うっふっふ、小林恵子もね。モデルになる契約だけだったんだよ。だけど、あの子がどうなったか、君もよく知ってるだろう。おれはね、体が冷えるんだ。氷のように冷えるんだ。おりおり、わかい女のあたたかい血をつぎこまぬことにゃ、おれの体は冷えきって死んでしまう。……君の血はとてもあたたかそうだよ」  幽霊男は真っ黒な手袋をはめた手をのばして、美津子の体にさわろうとする。 「きゃっ!」  美津子はおしつぶしたような悲鳴をあげて、ちょっとうしろへにじりよると、 「あんた、なぜ、そんな繃帯をしてるの」  |喘《あえ》ぎ、喘ぎ、きれぎれの声だったが、本能的に、彼女はいくらかでも時間をかせごうとしているのだ。 「うっふっふ! あんまりいっぺんに、君をおどろかしちゃいけないと思ってね」 「その繃帯とって見せて……」 「いいかい、おまえ、怖くはないかい」 「怖くてもしかたがないわ。あたしは……あたしはどうせ殺されるンだもン」  美津子は両手を眼にあててしくしく泣き出す。いや、泣くまねをしながら、なんとかのがれるすべはないかと頭を働かせているのだ。 「うっふっふ、泣くこたあないよ。ちっとも苦しいことはないんだからね。ほら、それじゃ、顔を見せてあげよう」  幽霊男は少しはなれて、顔の繃帯をときにかかる。|顎《あご》のほうからしだいに露出してくる、あの土色の顔を見たとき、美津子はまた真っ黒な絶望のおもいにつぶされそうだ。  幽霊男は鼻のところまで繃帯をといていったが、急にぎょっとしたようにその手をとめた。どこかで男のののしる声がきこえたからである。それと同時になにかをぶつけあうような音。 「しまった!」  と、さけぶと、幽霊男はいきなり美津子におどりかかって、手袋をはめた手で口をおさえた。そして、右手でせわしくガウンのポケットをさぐっているのは、そこにあるニッケル製の容器をさぐっているのである。  それはさておき、読者諸賢よ。  この部屋に虎の毛皮がしいてあること、外科手術に使うような電気がブラさがっていること、夜光塗料をぬった鳩時計があること、さてはまた、鏡つきの化粧ダンスがあることを、よく記憶にとどめていただきたい。  そのことがのちに、大きな|謎《なぞ》を投げかけることになったのだから。     |蜘《く》|蛛《も》と狂人  それよりよほどまえのことである。  真っ暗な車庫におさまった自動車の後部から、こっそり|這《は》い出した少年があった。いうまでもなく小林恵子の弟の浩吉だ。  宮川美津子にたのまれて、それとなく彼女に注意していた浩吉は、神田から護国寺わきまで自動車をつけてくると、首尾よく後部へもぐりこんだものの、さて、それから、自動車がどこをどう走ったのか見当もつかなかった。  はじめのうち、浩吉はときどきそっと、トランクの|蓋《ふた》をひらいて外をのぞいていたが、何しろ真っ暗な夜道のこととて見当のつけようもなく、すぐ方角を見失って、だからいまいるこの車庫が、東京のどのへんにあたるのかさっぱりわからない。  自動車はずいぶん長く走りつづけていたが、じっさいにそれだけ走る必要があったのか、それとも尾行をまくために、わざと|廻《まわ》りみちをしていたのか、窮屈な場所にかくれていた浩吉には、それもわからなかった。とにかく、自動車は、あれからゆうに、半時間は走りつづけたようである。  さて、浩吉は窮屈な場所からぬけだしたものの、困ったことには車庫にはぴったり鉄の扉がしまっている。外から錠がおろしてあるらしく、押せどもつけども開かない。  コンクリートで固めた箱のような車庫には、ドアよりほかに出口はないのだ。浩吉は思わずゾーッと身をふるわせた。いまさらのように自分の冒険の、無鉄砲だったことに気がついたのだ。  浩吉はまだ自動車のなかで、どんなことが起こったのかはっきり知らない。何か変わったことがあったらしいとはわかっていても、それが美津子にとって、あの恐ろしい出来事だったろうとは気がつかぬ。いっしょに乗っていた男が、美津子をくどいて、手ごめにして、むりにこの家へつれこんだのだろう。……  そんなふうにわりに軽く考えている。だからこの車庫へ閉じこめられていることに、どんな恐ろしい意味があるか知らなかった。知らなくて幸いである。  自分のつけてきたのが幽霊男の自動車だと、はっきり知っていたらいかに大胆な浩吉でも、恐ろしくてじっとしておれなかったろう。  外へ出られないとはっきりわかると、浩吉はすぐ観念して、とにかく車体番号をひかえておこうと、懐中|電《でん》|燈《とう》に灯をつける。不良性をおびているだけに、こんなことにはよく気がつくのだ。  車体番号を手帳にひかえると、つぎにドアを開いて車内を調べる。車内にみなぎっていたあの|甘《あま》|酸《ず》っぱい|匂《にお》いも、もうそのころは発散していたので浩吉も気がつかなかった。  浩吉はそこで客席へもぐりこむと、体を長くして、そのままうとうとと眠ってしまった。  どれくらい長く眠っていたのかわからないが、ふいに浩吉ははっと眼をさました。ドアをガチャガチャいわす音がきこえたからだ。  誰かが車庫を開いている。……  浩吉はあわてて自動車からすべり出ると、車庫の隅に身をしずめる。と、ほとんど同時にドアが開き、車庫のなかに電気がつくと、男がひとり入ってきた。  浩吉のいるところではよくわからなかったが、黒い革のジャンパーを着て長靴をはいているのが見える。さっきの運転手らしい。  おやおや、いまごろ自動車を出すのかしら。……  浩吉は胸をドキドキさせているが、そうではなかった。忘れものがあったらしく、運転手は運転台から何かとりあげると、そのままコツコツ車庫から出ていく。  運転手はまたドアに錠をおろしていくだろうか。……  いや、浩吉にとってしあわせだったことには、こんどはドアをしめただけで、錠はおろしていかなかった。おそらく間もなく自動車を出す用事があるのだろう。  浩吉はしずかに自動車のかげから忍び出ると、ドアの内側でしばらく耳をすましたのちに、そっとドアに手をかけた、わずかな|軋《きし》りにも浩吉は胸をドキドキさせるのだ。  やっと体が出るくらいドアを開いて、浩吉は車庫からすべり出る。  曇っているので外はまっくらで、家のかたちもよくわからない。  しかし、車庫から五、六間はなれたところに、明かりのもれる窓がある、運転手の住居らしく、小さな洋風の平屋が建っているのだ。  美津子はどこにいるのだろうか。……見まわしたが、あの平屋の窓のほかにはどこにも明かりのもれるところはない。  浩吉は足音をしのばせながら、そっと小屋のそばへ近よった。窓にはカーテンが垂れているが、お|誂《あつら》えむきに、少しはしがまくれているので、そこへ眼をあてがって見る。  小屋のなかにはほの暗い裸電気がついている。電気の下に粗末ながらもベッドがあり、ベッドのうえにさっきの男がうつぶせに寝そべっている。  革のジャンパーも長靴もぬぎ、くつろいだパジャマ姿で、何やらしきりに、げらげらとうれしそうに笑っている。  光線のぐあいで顔はよく見えないが、髪の毛のもじゃもじゃした男だ。うつぶせになって、子供のように脚をばたばたさせながら、両手でつまぐっては、うれしそうにげらげら笑っているのである。  何をあんなに夢中になっているのか。何をあのようにうれしそうに笑っているのか。……  浩吉はなにかしら、薄ら寒いような気味わるさを感じながら、|爪《つま》|先《さき》立ってなかをのぞいたが、そのとたん、ゾーッと総毛立つような恐ろしさをかんじた。  ベッドの|枕《まくら》もとにあたるところに、三尺くらいの長方形のガラスの容器がおいてある。そのガラスのなかに、うじゃうじゃするほどうごめいているのは、なんと|蜘《く》|蛛《も》ではないか。  いまはまだ二月のおわりだ。むやみに蜘蛛が出る時期ではない。してみると、あの蜘蛛は飼育されているにちがいない。  蜘蛛を飼う男。……  それじゃ、あの男は津村一彦ではあるまいか。そうだ、その男は蜘蛛をつまぐっては、げらげらうれしそうに笑っているのだ。  ふいに男がむっくりと顔をあげた。ぎらぎらと眼の血走った、|狼《おおかみ》のような顔である。  男はガラス容器のふたを開くと、むんずとなかへ左手をつっこむ。浩吉の眼にはっきりと、その小指が半分かけているのがうつった。  やがて男がガラス容器から手を出すと、おびただしい蜘蛛が、腕から胸へとはいのぼる。 「きゃっ!」  浩吉は思わず悲鳴をあげる。  と、そのとたん、狂人は狂人とも思えないほどの……いや、狂人特有の|敏捷《びんしょう》さであったかもしれない……速さでもって小屋からとび出すと、逃げ出す浩吉のうしろから、むんずと首根っ子をおさえた。  幽霊男が聞いたのは、その物音だったのである。    第三章 左の小指が……  その翌日。  本庁から幽霊男の件につき、至急登庁されたいという要請に接した等々力警部が、そそくさと、自分の担当する第五調べ室へ入っていくと、部屋のなかには数名の刑事が、こちらに背をむけて半円をえがいている。  ドアの開く音に、はっと振りかえった刑事のひとりに、「新井君、どうしたんだ。幽霊男のことで何か新事実があがったのか」  と、等々力警部はかみつきそうな調子である。 「あっ、警部さん」  新井刑事は呼吸をはずませて、 「このひとが、何か幽霊男の件につき、警部さんじきじきに、お話し申し上げたいことがあるというんです」  半円をえがいた刑事たちが体をひらくと、その中央にひとりの男がしょんぼりと、|椅《い》|子《す》に腰をおろしている。  髪は乱れ、ネクタイはひんまがり、洋服はところどころ泥にまみれて、ひどく取り乱した様子だったが、警部には見おぼえのある菊池陽介である。眼鏡をどこかへなくしたとみえ、金魚のようにとび出した眼が、妙にしょぼついて濁っている。|無精髭《ぶしょうひげ》がすこしのびているのも、いつもの菊池らしくなかった。  警部はぎょっと眼を見張って、 「あっ、あんたは菊池さんじゃありませんか。いったい、ど、どうしたというんです」  菊池はどろんと濁った眼をあげて、ちょっと警部の顔を見たが、すぐその眼をそらすと、大儀そうに首を左右にふる。  そのとき、横から制服の警官がひとりすすみ出た。 「警部さんに申し上げます。私は|早《わ》|稲《せ》|田《だ》署河村啓吉というものですが、けさ五時半ごろ、受け持ち区域を巡回中、このひとが路上に寝ているのを発見したのです。そこで|叩《たた》き起こしたところが、様子がすこし変なので、交番へつれてかえって、いろいろ|訊《き》いているうちに、麻睡ピストルがどうとかこうとか……」 「麻睡ピストル……?」  警部は思わず眼を見張る。 「ええ、そうなんです。なんでも、|睡《ねむ》り薬かなにかでやられたらしく、意識もまだはっきりしないようでした。そこで署のほうへつれていって、ここにいられる主任さんにその旨御報告申し上げたんですが……」  河村巡査にかわって、早稲田署の捜査主任海野警部補が口を出す。 「そこでいろいろ|訊《たず》ねているうちに、幽霊男がどうとかこうとかいい出したんです。幽霊男の一件といやア、ちかごろでの重大事件ですから、こっちも緊張して訊ねてみたんですが、どうもまだ意識が|溷《こん》|濁《だく》しているらしくはっきりしない。医者にもみせたんですが、やはり何か、強い麻睡薬でやられているらしいというンですね。そこで注射やなにかやっているうちに、いくらか意識をとりもどして、警視庁の等々力警部のまえで、なにもかも申し上げたいといい出したんです。そこでこうして、河村君とふたりでつれてきたわけですが、警部さんはこのひとをご存じなんですね」 「ああ、知っている。君たちもおそらく聞いているだろうが、神田の共栄美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》。ヌード・モデルを供給する機関だね。あすこのご常連のひとりで、菊池陽介氏というンだ」  等々力警部はそれから、きびしい視線を菊池にむけて、 「菊池さん、どうしたんですか、ゆうべ何かあったんですか。幽霊男がどうしたというんです」  と、たたみこむような質問である。  菊池はしかし、まだ意識が正常でないらしく、|瞼《まぶた》をしょぼしょぼさせながら、ぼんやりとした視線を警部にむけて、 「左の小指が……」  と、たゆとうような声である。 「左の小指が……左の小指がどうしたというんです」 「半分かけているんです」 「左の小指が半分かけている……? 菊池さん、それがどうしたというんです」 「左の小指が……」  と、菊池はあいかわらずたゆとうような声で、同じことばをくりかえす。 「半分かけているんです」 「左の小指が半分かけている。それはわかっている。しかし、それがどうしたというんだ。菊池君、しっかりしたまえ」 「左の小指が……」 「警部さん、警部さん」  そのときそばから新井刑事が、|興《こう》|奮《ふん》したような眼をかがやかせて、 「このひとのいっているの、ひょっとすると、津村一彦のことじゃありませんか。あいつ、たしか左の小指が、半分かけてるという話でしたが」 「あっ!」  と、警部がいきをのむと、あわてて菊池の肩に両手をかけて、はげしく前後にゆすぶりながら、 「菊池君、菊池君、しっかりしたまえ。それじゃ君は津村一彦にあったのか」  菊池は体をゆすぶられて、|張《はり》|子《こ》の|虎《とら》のようにがくりがくりと首をふりながら、 「お貞が小指をかみきったんです。ずっと、ずっと、まえのことです」 「お貞……? お貞というのはモデルの都築貞子のことか」 「お貞はそれを津村一彦とは知らなかったんです。生き血を吸われかけたもんだから、夢中になってかみついたんです」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「お貞はゆうべはじめて、そんな話をしたんです。そしたら、お美津のヌードを見た客の誰かが、左の小指が半分かけていたんです」  一同はぎょっとしたように顔を見合わせる。  等々力警部はなまじことばをはさむより、相手にかってに、しゃべらせておいたほうがよいと、気がついたらしく、肩に両手をかけたまま、菊池の顔を見すえている。  菊池はあいかわらず、どんよりとした眼をしょぼつかせながら、夢見るような声で、 「お美津はとってもおびえたんです。それでぼく、自動車で送っていってやったんです。そしたら、運転手の左の小指が……」 「運転手の左の小指が……?」 「半分かけていたんです」  一同はまたぎょっと顔を見合わせる。 「それで、その運転手がどうしたんだ」 「だしぬけにうしろをむいて、ピストルをぶっぱなしたんです」 「ああ、それが麻睡ピストルだったんだな。それから、どうしたんだ、君は……?」 「ぼく、どこかに寝ていたんです。それをだれかに起こされて……」  頭がきりきりいたむのか、菊池は両手でかかえこんで、髪の毛をむちゃくちゃにかきむしっている。 「お美津というのは宮川美津子のことだね。そこで君は、宮川美津子がどうなったか知らないんだね」 「お美津は……お美津は……」  菊池は金魚のように口をパクパクさせながら、 「幽霊男につれていかれたのにちがいない……」  そのとき、卓上電話のベルがけたたましく鳴り出したので、新井刑事が受話器をとって、ふたこと三言応対していたが、とつぜん、ぎょっとしたように、 「なに、それじゃその女、宮川美津子という名刺を持っているんだね」  と、かみつきそうな声でさけんだから、等々力警部をはじめとして、一同ははじかれたようにそのほうへふりかえった。     ボートの中  |築《つき》|地《じ》|明《あか》|石《し》町の水上署から、菊池陽介をつれて警察のランチに乗りこんだ、等々力警部と新井刑事、ほか数名の警官は、二月下旬の身を切るような河風をついて、下流のほうへすすんでいく。  警官たちはいずれも|顎《あご》|紐《ひも》をおろして、緊張した面持ちである。  菊池陽介もつめたい河風に吹かれて、いくらか意識をとりもどしたらしいが、それでもしょぼしょぼした眼に元気がなく、 「警部さん、どこへいくんですか」  と、|訊《たず》ねる言葉も抑揚をかいている。  むこうを見ると|朝《あさ》|靄《もや》の中に|勝《かち》|鬨《どき》|橋《ばし》がくっきりそびえて、橋のうえには鈴成りのひとだかりだ。みんな背のびをするようにして、橋の下をのぞいている。  ちょうど出勤時間なので、橋のうえを通る都電も|鮨《すし》|詰《づ》めの客だったが、それらの客も橋のうえを通るとき、いったい何事がおこったのかと、窓から首をつき出して、河のなかをのぞいていく。  やがて、等々力警部の一行を乗せたランチが、勝鬨橋の下までくると、そこにはさきにきた警察のランチが、一そうのボートをつなぎとめて、しきりになにやら|喧《わめ》いている。  ときおり、朝靄をつらぬいて、強い光が走るのは、写真班のたくフラッシュである。ボートの中の光景を写真にとっているのだ。  やがて、写真班の撮影がおわると、男がふたり、ランチからボートの中へおりていった。|鞄《かばん》をさげているところをみると、ひとりはどうやら医者らしい。 「やあ、ご苦労さん」 「ご苦労さん」  二そうのランチのあいだに|挨《あい》|拶《さつ》がかわされて、等々力警部をのせたランチも、ボートのそばに横着けになる。  見ると、ボートのなかには男と女が、抱きあうような姿勢で横たわっている。どちらもオーヴァにくるまり、そのうえに、毛布がいちまいかけてあったらしいが、長時間つめたい河風にさらされていたとみえて、顔が紫いろにくちている。  等々力警部は眼を見張って、 「ふたりとも死んでるの?」  そういう声は|咽喉《のど》にひっかかってしゃがれている。 「いや、死んじゃいません。睡ってるだけなんです。何かよほど強い薬をのまされるか、|嗅《か》がされるかしたんですね」  ボートのなかから、警部補らしいのが振りかえってこたえた。  医者は黙々として、ふたりの瞼をひっくりかえして、|瞳《ひとみ》を改めたり、脈を調べたり、それから鼻孔を嗅いでみたりしていたが、やがて鞄をひらいて注射器を取り出すと、二、三本ずつ、ふたりの腕に注射をして、 「だいたい、これで大丈夫でしょう。もう一時間もすると|覚《かく》|醒《せい》すると思います」 「死ぬようなことはないでしょうな」  警部補が心配そうに念を押す。 「その心配はないでしょう。どちらも心臓が丈夫なようだから。……それより|風《か》|邪《ぜ》をひかさないように、はやく暖をとってやるんですな」  医者がランチへあがっていくと、いれちがいに、二、三人の警官がおりてきて、ふたりの体を抱きあげようとする。 「あっ、ちょっと……」  と、それを制して等々力警部は、ぼんやりそばに立っている菊池陽介をふりかえった。 「ここにその女を知っているひとがいるんだが、ちょっと女の顔を、そのひとに見せてあげてくれたまえ」 「はっ」  警官が女の体を抱きおこして、その顔をランチのほうへむけたとたん、 「お、お、お美津……」  菊池陽介の眼はいまにもとび出しそうになり、ランチのうえでよろよろと、泳ぐような手つきをした。等々力警部はあわててその体を抱きとめると、 「宮川美津子にちがいありませんね」 「お美津……お美津……宮川美津子……」  菊池は大きく眼を見張ったまま、放心したように|呟《つぶや》いている。 「よし、それじゃついでに、男のほうも見てもらおう。君、君、男の顔をこちらへむけてくれたまえ」 「警部さん、男って、これはまだほんの子供なんですぜ」 「子供……?」 「ええ、そう、まだ十六、七という年ごろでしょう」  警官が少年の体を抱きおこしたとたん、こんどは等々力警部の眼がいまにもとび出しそうになった。 「あっ、こ、小林浩吉!」 「警部さんはご存じなんですか。この少年を……」  ボートの中から警部補が声をかける。 「うん、知ってる。幽霊男のさいしょの犠牲者になった、小林恵子の弟だ」 「ゆ、ゆ、幽霊男……?」  ボートを|囲繞《いにょう》している空気が、一瞬、ぴいんと緊張する。警部補の|頬《ほ》っぺたがぴくりと|痙《けい》|攣《れん》した。 「ああ、それじゃ、やっぱりそうだったんですか。この女の持っている名刺に、共栄美術倶楽部という文字が刷りこんであるもんですから、ひょっとすると……と、思ったんですが……」  警部補は帽子をとって、額ぎわの汗をぬぐった。 「それで、ふたりともたしかに生きているんだね」  等々力警部は念を押す。生きているのがおかしいといった顔色である。 「ええ、それは大丈夫です。脈も正確にうってます」 「ああ、そう、それじゃはやくランチへうつして、暖をとるようにしてやってくれたまえ。菊池さん」 「はあ……」  菊池はまだ夢を追うような眼つきである。 「ゆうべ、小林浩吉もいっしょだったんですか」 「いいえ、知りません。|護《ご》|国《こく》|寺《じ》のわきで、左の小指の半分かけた運転手におそわれたときには、ぼくとお美津……宮川美津子のふたりきりでした。|浩《こう》ちゃんがどうしてまたお美津といっしょに……」 「ふうん。すると小林浩吉はどこで幽霊男にとっつかまったかな。まあ、いいや、いずれ、ふたりの眼がさめたらわかることだ。ときに……」  と、警部はむこうのランチへはこびこまれる、宮川美津子と小林浩吉のすがたを眼で追いながら、 「いったい、誰がボートを発見したんだね」 「はあ、それは、ここにいるこのひとなんですがね」  むこうのランチのデッキに立って、警官たちの指揮をしていた警部補は自分のそばに立っている男の肩をたたいた。等々力警部は何気なく、その男に眼をやったがそのとたん、警部の眼が、また張りさけんばかりに大きくなった。 「君は……」  と、警部は呼吸をはずませて、 「新東京日報社の建部健三君じゃないか」  むこうのランチに寒そうに、肩をすぼめて立っているのは、まぎれもなく新東京日報社の建部健三。 「健ちゃん!」  菊池陽介も眼を見張って、 「き、君がどうして……?」  菊池の意識もしだいに正常さをとりもどしてきたらしく、健三を視る眼に|猜《さい》|疑《ぎ》の色がふかかった。 「電話がかかってきたんです。幽霊男から。……」  建部健三は、警部と菊池の疑いぶかい眼つきを意識しながら、そっぽをむいて、ひくい、抑揚のない声でつぶやく。 「幽霊男からなんといって……?」  警部のことばはきびしいのである。 「宮川美津子の体をボートに乗せて、|隅《すみ》|田《だ》川へ流したから、はやくいって探してみろ。また、素晴らしい特種ができるぜ。……と、そういって、気味の悪い声で笑ったんです」 「何時ごろのこと? それは?」 「電話が切れてから時計を見たら、かっきり五時でした」 「君はそのときどこにいたの」 「社にいたんです。ゆうべぼくは泊まりでしたから」 「じゃ、なぜすぐそのことを警察へ連絡しなかったんだ」 「だって、|嘘《うそ》かほんとかわからぬことを……それに、もし、それが真実だったら、ぼくとしては、やっぱり自分でさがして、特種にしたかったんです」  そういえば、健三はカメラを肩にぶらさげている。  しかし、等々力警部の眼つきから、なかなか疑いの色が消えなかった。     前奏曲  宮川美津子と小林浩吉が覚醒したら、今度こそ重大な手がかりがえられるだろうという、等々力警部の期待はみごとに外れて、幽霊男のこの事件は、いよいよ怪奇さをましていくばかり。  まず第一に、幽霊男とは津村一彦ではないかという推定が、どうやら的外れであったらしいことだ。美津子と浩吉の話を総合してかんがえるに、幽霊男と津村一彦は別人のようだ。しかし、この事件に津村一彦もなにか一役買っているらしいことは、もう疑いをいれる余地がない。  左の小指が半分かけているというそれだけならば、必ずしもそれを津村一彦と断定することはできないかもしれないけれど、浩吉が目撃した|蜘《く》|蛛《も》にたいする強い執着……それこそは津村一彦以外の何人でもないことを証明しているのではないか。  それでは、これはいったいどういうことになるのだ。  幽霊男と津村一彦は共謀しているのか。ともに凶暴な吸血願望を持つふたりが、同気相い求めて結託し、女の生き血を求めているのであろうか。  どうもそうとしか思えず、もしそうだとすれば、これはいよいよ大変な事件である。  それはさておき、覚醒した美津子と浩吉は、ふたりがつれこまれた家というのについて、等々力警部からきびしい追究をうけた。  しかし、麻睡ピストルのために完全に睡らされた美津子に、それがわかろうはずがなく、また、窮屈なトランクの中にかくれていた浩吉にも、自動車がどこをどう走ったのか、見当のつけようもなかった。  ただ、わかっていることは、護国寺わきから半時間ほど走ったところということだけだが、それとても、まっすぐに目的地へ走ったのか、尾行をまくために、わざとまわり路をしたのではないかということがはっきりしない以上、自動車の走った時間だけで、距離を推定することは危険だった。  ただ、辛うじて手がかりとなりそうに思えるのは、美津子の記憶にのこっている、幽霊男の部屋の光景だ。  床に|虎《とら》の毛皮がしいてある。  天井から外科手術に使うときのような|照明燈《しょうめいとう》がぶらさがっている。  夜光塗料をぬった鳩時計がかかっている。  鏡つきの化粧ダンスがあり、部屋の隅にはガス・ストーヴがそなえつけてある。……  それともうひとつは小林浩吉の記憶である。  あの蜘蛛とたわむれる狂人にとっつかまった浩吉は、即座に睡らされてしまったので、家にたいする記憶はほとんどのこっていなかったが、自動車についてはかなりはっきり|憶《おぼ》えている。  それはフォードの五二年型で車体の色は黒だった。浩吉はその車体ナンバーをひかえたのだが、眠っているあいだに手帳をとりあげられたので、はっきりとした数字をあげることは出来ないが、白ナンバーであったところを見ると、自家用車であると思われる。…… さらにもうひとつの手がかりというのは、ふたりを流したボートである。  それは|両国橋《りょうごくばし》の西詰めにある、都鳥という貸しボート屋のボートの一そうであった。むろん、それらのボートは夜のうち、ボート小屋のなかにつながれているのがふつうだが、何者かが——即ち幽霊男か津村一彦かが——小屋の錠前をねじきって、ボートを|漕《こ》ぎ出し、流したものと思われる。  だいたい、以上の点が今度の事件からえられた手がかりだが、しかし、これだけではまるで雲をつかむような探しものである。  東京じゅうの家をのぞいて見ないかぎり、美津子のいうような部屋を発見することはむつかしいし、黒塗りフォードの五二年型といえば、東京に何台あるかわからない。また、都鳥のボート・ハウスへ忍びこむチャンスは、誰にだってあるはずである。  結局、こうしてこれらの手がかりも、手がかりであってないようなものだ。  ただここに不可解なのは、このたびの幽霊男のやりくちである。  小林恵子のばあいは無残に死にいたらしめながら、こんどの場合は、美津子も浩吉も命をうばうことをさしひかえている。  おまけに、建部健三に、ふたりのいどころを|報《し》らせてきているが、ひょっとすると、それはふたりの凍死することを、恐れたためではあるまいか。……  その点が第一の事件とちがっており、捜査陣に首をかしげさせた。  それはさておき宮川美津子だが、彼女もいくらか吸血されたらしい形跡はあったものの、このことは健康に影響をおよぼすほどのことではなかった。それよりも、あの際うけた精神的ショックのほうが大きかったらしく、その後しばらく、稼業も休んで寝込んでしまった。  こうして、幸か不幸か、この事件ではひとりの犠牲者も出さずにすんだが、果たしてこれが、幽霊男の予告した、第二幕目であったろうか。  いやいや、そうではなかった。  あとから思えば、宮川美津子のこの事件は、単なる前奏曲にすぎなかったのだ。  ほんとうの第二幕目は、それより約一か月ほどのちに、眼をおおわしめるような残忍さをもって、みごとに演出されたのである。     美の|饗宴《きょうえん》  |伊《い》|豆《ず》半島の南方S温泉地の付近は、東京からくらべると、一か月あまりも気温が高いといわれ、三月もおわりの天気のよい日など、どうかすると、東京の五月ごろの陽気を思わせる。  このS温泉地に百花園という高級旅館がある。  これはもと、さる高貴のかたのご別邸だったのが、戦後民間人の手にうつって、いくらか内部に改修がくわえられたうえ、いまでは高級ホテルとして経営されているのである。  それは東京で、宮川美津子と小林浩吉の事件があってから、約一か月のちの三月二十四日の夕方のこと。  東京からこの百花園まで、十数台の自動車をつらねて乗りつけてきた、にぎやかな男女の一団があった。  あらかじめ申し込んであったと見えて、支配人をはじめとして、ホテルの高級従業員のほとんどが玄関へ出て、うやうやしくこの一行を迎えたが、先頭の自動車から、まずイの一番におりたった人物を見ると、なんとそれは共栄美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》のマネジャー広田圭三ではないか。 「やあ、本多さん、とうとうみんな引っ張って来ましたよ。ひとつ、なにぶんよろしくたのみますぜ」  広田マネジャーはホテルの本多支配人と握手をしながら、上機嫌である。 「いやあ、これはこれはようこそ。皆さん、お美しいですな」  広田マネジャーのあとからおりてきた三人の女を見ると、本多支配人は眼を細めて悦にいっている。 「あっはっは、こういう美しいのが、あとからぞくぞくやって来ますからね。ああ、健ちゃん、健ちゃん、ちょっとこっちへいらっしゃい」  建部健三は二台目の自動車からおりてきた。ほかに中年の紳士と西村鮎子、もうひとりわかい女のつれがある。  建部健三も中年の紳士も、肩に高級カメラをぶらさげている。 「マネジャー、何か用……?」 「ちょっと紹介しておきましょう。こちらがここの支配人の本多さん、こちらは新東京日報社の敏腕記者として、その名も高い建部健三さん」 「よせやい、なぐられるぜ」  うっすらと汗ばんだ建部健三も上機嫌で、本多支配人と握手をしながら、 「ほんとに暖かいですねえ。マネジャーから聞いてはいたが、こんなだとは思いませんでしたよ」 「それ、ごらんなさい、健ちゃん、わたしのいったとおりでしょうが」 「ええ、もう東京からくらべると、一か月は完全に早うございますからね。花もいろいろ満開ですし、その点、十分満足していただけると思っています」 「さいわい、あしたは天気もよさそうだし」  と、健三は空を見あげて、 「それじゃ、ひとつうんと腕をふるうことにするかな。鮎ちゃん、頼むよ」 「ええ、いいわ、どんなポーズでもお好みしだいよ」 「健ちゃんのためならばね」 「まさにマネジャーのおっしゃるとおり」 「あっはっはっは、そうするとわたしどももお|相伴《しょうばん》をして、眼の保養をさせでいただけますな」  あから顔の支配人が、相好をくずして悦にいっているところへ、三台目の自動車がついて、 「ああ、カメラが夜泣きするよ。カメラが夜泣きしているよ」  と、大声でさけびながらおりてきたのは菊池陽介。宮川美津子の事件のあったときとは、うってかわって大元気の上機嫌である。これまた同じ年頃の男のほかに、都築貞子ともうひとり若い女のつれがある。 「健ちゃん、健ちゃん、お気の毒だがね、今度のコンクール、一等賞はぼくがもらった。健ちゃんなんか、あんまりフィルムをむだにしないほうがいいぜ。あっはっは」 「そうはいかん、菊池さん。ぼくはみちみち鮎子ちゃんと約束して来たんだもン」 「なんの約束だい」 「副賞の一万円をもらったら、鮎子にハンドバッグを買ってやるってね。あっはっは」 「ああ、|獲《と》らぬ|狸《たぬき》の皮算用ってのはそういうことをいうんだね。鮎ちゃん、おまえには気の毒だが、ハンドバッグは夢のかなたに消え去るよ」 「菊池さん、あんた、ほんとにお気の毒ね」 「何がさ」 「お美津ちゃんが不参でさ。あのひとさえ来てりゃ、あるいは一等賞、あんたにおちるかも知れないけれど……」 「ああ、お美津か」  と、菊池もいくらか顔色をくもらせて、 「あいつ、あんなに|臆病《おくびょう》なやつとは知らなかったよ。あれから一か月もたつのにいまだにぶらぶらしてやあがる。もっとも、無理はないようなもののね」 「その話はよした、よした」  と、広田マネジャーがさえぎって、 「せっかく楽しい猟奇クラブの例会に、不吉な発言はご遠慮願います」 「マネジャー、マネジャー、広田さん」  本多支配人が口を出して、 「加納先生はどうなさいました?」 「ああ、先生はね、何か大手術がおありだとかで、遅刻なさるそうです。あすの午前中にはきっといらっしゃるはずです」 「あの先生、何かというと手術だよ」  と、菊池陽介が不平そうにつぶやいて、 「いや、もっとも名医だからね」  と、あわててそのあとへ付けたした。  そういううちに自動車はぞくぞくと到着して、やがて百花園ホテルのロビーは、三十名ばかりのけばけばしい女と、それとほとんど同数の男たちのざわめきによって、耳も|聾《ろう》するばかりの|喧《けん》|騒《そう》にみたされた。  ここに断わるまでもなく、女というのはいずれもヌード写真のモデル、男は全部猟奇クラブの会員である。  ゆくりなくも幽霊男の出現によって、一月と二月の例会を棒にふったクラブでは、何がなんでも三月は、お流れになった前二回分の埋め合わせもふくめて、うんと盛大にやろうということになり、そこで採りあげられた案というのが、野外ヌード写真コンクール、気取ってこれを美の|饗宴《きょうえん》という。  発案者は三幹事のひとり建部健三だったが、その会場として、百花園ホテルをえらんだのは、顔のひろい医学博士の加納三作。  即ち、三月二十四日の夕方から、二十五日いっぱい、百花園ホテルを買いきり、二十四日の晩、底抜け騒ぎを演じたのち、翌二十五日は、ホテルの庭をかりて、美の饗宴を展開しようというのである。  もちろん、二十四日の晩、意気投合した一対があれば、ご自由にお楽しみになってよろしいという付則もあり、むしろそのほうがお目当てで、参加した会員も少なくない。  五時ごろ全員つつがなく到着した。夕食は六時ということになっているので、幹事の建部健三は、それまで休息しておこうと、ボーイの案内で自分の部屋へ入っていった。 「ボーイさん、ほかに客はないんだろうね」 「はい、どなたもいらっしゃいません」 「ああ、そう、それじゃ、ぼく、ちょっと横になるから」 「どうぞ、ご自由に……」  脱ぎ捨てた健三の上衣を洋服かけにかけると、ボーイはにやにやしながら、ていねいに頭をさげて出て行った。  これはあとから気がついたことだが、このボーイというのは、いささか百花園ホテルに似合わしからぬ人物だった。ここのボーイの制服として、おもちゃの兵隊さんみたいな服を着て、頭には房のついたトルコ帽をかぶっているが、そのトルコ帽の下からはみ出しているのは、|雀《すずめ》の巣のようなもじゃもじゃ頭。それにボーイとしてはいささか年をくっている。 「あん畜生! 何をにやにや笑やあがったんだろう。虫の好かぬやつだ」  健三はいまいましげに|呟《つぶや》いたが、そういう健三の気持ちを知るや知らずや、ボーイは健三の部屋から三つほど離れた部屋のまえまでさしかかったが、とつぜん、ぎょっとしたように立ちどまった。  部屋のなかからかすかな女の悲鳴が聞こえたからだ。  これがふつうのボーイならば、一応ノックをすべきだろうに、この虫の好かぬボーイは悲鳴を聞くと、いきなりさっとドアを開いた。  部屋のなかには都築貞子が、シュミーズ一枚で、|真《ま》っ|蒼《さお》になってふるえている。 「あっ、ボーイさん」  貞子もよほどあわてているらしく、ボーイの無礼をとがめることも忘れて、 「あれを取って、……鏡のうえにぶらさがっている、あれを取りのけて……」  ボーイが鏡のうえを見ると、そこにぶらさがっているのは一匹の|蜘《く》|蛛《も》だった。     悪魔の構図  お|誂《あつら》えむきにその翌日は、一点の雲もない日本晴れの上天気だった。  猟奇クラブの会員たちは、朝食がすむやいなや、裸のモデルを庭へ引っ張り出して、あちらでもパチリ、こちらでもパチリ。  このホテルが百花園と命名されたのは偶然ではない。何万坪というひろい庭には、手入れのいきとどいた花壇が、迷路のようにひろがって、百花リョーランと咲き乱れている。  それらの花壇に寝そべって、物いう花と物いわぬ花、あちらでもこちらでも、奇抜なポーズをつけているのは、たしかに偉観であった。  十時ごろ菊池陽介は都築貞子とわかれると、ヴェランダで茶をすすっている、建部健三と西村鮎子に出あった。鮎子はいつでも裸になれるように|便《べん》|衣《い》を着ている。 「健ちゃん、おやじさん、まだかい?」 「うん、もうそろそろ来てもいい時分だが……午前中にくるといっていたんだから。菊池さん、自信のあるの出来たかい?」 「ああ、もうたくさんね。鮎ちゃん、おまえ、健ちゃんばかりにくっついてないで、ぼくにもポーズつけておくれよ」 「ええ、いいわ、健ちゃん、いいでしょう」 「いいよ。ぼくはお貞をとらせてもらおう。菊池さん、お貞、どこいった?」 「さあてな。いまここにいたんだが……健ちゃん、お貞はおよしよ。きょうは駄目だよ」 「どうして?」 「あいつ、すっかり体の線がくずれてる。ゆうべご乱行じゃなかったのかな」 「あら、|嘘《うそ》よ。貞ちゃんに限ってそんなことないわ。あのひとけさから頭がいたいって、なんだか|蒼《あお》い顔してたわね」 「なんでもいいや。とにかくお貞を探してみよう。菊池さん、鮎子はあんたにまかせるよ」 「オー・ケー」  菊池はそれから一時間あまり、鮎子をあちこち引っ張りまわして写真をとったが、十一時過ぎにヴェランダへかえってくると、健三がつまらなそうに煙草を吸っていた。 「健ちゃん。どうして? 貞ちゃんは?」 「それがどこにもいないんだ。あいつ、体の線がくずれてるってから、うんと|頽《たい》|廃《はい》|的《てき》なところをとってやろうと、ずいぶん探してみたんだが……」 「変ねえ。何んだか気分が悪そうだったけど……」  鮎子の顔がちょっとこわばる。 「気分が悪いって、どうしたの?」 「それがねえ」  と、鮎子はちょっと|瞳《ひとみ》をうわずらせて、 「ゆうべ鏡のまえに蜘蛛がぶらさがってたんですって。蜘蛛……ね。それで、ゆうべよく眠れなかったって」 「あっはっは、馬鹿だねえ。ここはこんな陽気だもの、蜘蛛がいたって不思議はないさ。そんなこといちいち気にしてちゃ……」 「ええ、あたしもそういったのよ。だけどこんなに長く姿を見せないなんて変ねえ。マリちゃん、あんた知らない? 貞ちゃんを」  武智マリというこの女も、共栄美術倶楽部のモデルである。 「さっき菊池さんとわかれて、むこうのほうへいったわね。それから見かけないわ」 「あたしと菊池さんがあっちへいってるあいだに、ここへ帰って来なかった?」 「いいえ、あたいはずっとここにいたんだけど……」  鮎子の顔色がだんだん悪くなる。 「健ちゃん、探してみない? 気分が悪くて、どこかで倒れてるのかもしれないわ」 「うん、よし、いこう」 「それじゃ、おれも探しにいこう。マリ、おれといっしょにいかないか。きょうはおまえの写真一枚もとってないから、みちみちいいとこがあったら、ポーズつけておくれよ」 「ええ、いいわ」  マリは気軽に立ちあがる。 「健ちゃん、君は西へまわれ。ぼくはマリと東へまわる」  健三や鮎子にわかれていくと、いたるところで会員諸君が、モデルにポーズをつけさせ、パチリパチリとやっている。菊池もよい場所を見つけると、マリを裸にして写真をとった。  いつかマリと菊池は一同から遠くはなれて、|淋《さび》しい池のほとりへ出た。あの花園の迷路をすぎると、そこには自然の池や丘があり、池のむこうには島がある。 「ずいぶん、遠くまで来たわね。貞ちゃん、まさかこんなところまで来やあしないでしょ」 「うん、もうかえろうか」  菊池が|踵《きびす》をかえしかけたとき、 「あら」  と、さけんでマリが菊池の手をとった。 「菊池さん、あの島のそばにボートが乗りすててあるわ。誰か渡ったひとがあるのね」 「ああ、ほんとうだ。ひょっとするとお貞かもしれない。いってみようか」 「あんた、ボート|漕《こ》げる?」 「漕げるとも」  しかし、菊池はあんまり上手には漕げなかった。それでも三分ほどかかって池を渡ると、乗りすてられたボートのなかに、派手なガウンが脱ぎすててある。 「あっ、これ、お貞ンじゃない?」 「ええ、そうよ、そうよ。じゃ、やっぱり貞ちゃん、こっちへ来てンのね」  ボートをそこへつないでおいて島へあがると、ふたりはお貞の名を呼びながら坂をのぼっていった。五、六分歩いたところで、ふたりはとつぜんお花畑へ出た。それは千坪にあまるお花畑で、いちめんに色とりどりの花が咲いているのが、眼のさめるような美しさだ。 「お貞……お貞……」  呼びながら、あたりを見まわしていた菊池は、とつぜん、げらげら笑い出した。 「あっはっは、お貞のやつ、あんなところでひとりでポーズつけてらあ」  菊池の指さすところを見ると、なるほど、二十メートルほどむこうの花のあいだから、美しい二本の脚がニューッとのぞいている。  左の|膝《ひざ》をまげて、そのうえに右脚をのせ、皮のサンダルをはいている。つやつやと真っ赤にぬられた|爪紅《マニキュア》が、さんさんと降る太陽の下で美しかった。 「マリ、おまえはここにおいで。おれ、お貞を呼んでくる。さんざん心配させやがって、うんと|叱《しか》りつけてやらなきゃ……」 「うっふっふ、貞ちゃんもいい気なもンねえ」  菊池はズボンにからまる花々をかきわけながら、目的の場所へ近づくと、 「お貞、お貞、何してンだ。そんなとこで……」  と、花の中に身をかがめたが、とつぜん、世にも異様な声をあげてとびのいた。 「ど、どうしたのよう、菊池さん、貞ちゃん、どうかして?」  駆けよろうとするマリを制して、菊池はまるで石になったように身をすくめ、花の底を凝視していたが、やがておそるおそる身をかがめて、両手でそこらを探っていたが、 「やっ! いけない、マリ、大急ぎで誰かを呼んできてくれ!」  と、こちらをむいて、狂ったように振ってみせる菊池の両手には、べっとりと赤黒いものがついている。 「き、菊池さん、貞ちゃんは……?」 「死んでる! 殺されてンだ、はやく、はやく、誰か呼んできてくれ!」  マリはおびえきった|兎《うさぎ》のように、ぴょこんといちど飛びあがり、それから一目散に坂をかけおりていった。あんまりおびえきっているので、マリがボートのところまで|辿《たど》りつくには十分以上もかかった。|馴《な》れぬ手つきでオールを握ると、ボートはぐるぐる空まわりする。  マリが健三や鮎子、それからいまついたばかりだという加納博士のほかに、もうひとり、あの虫の好かぬボーイをつれて、島のお花畑へひきかえしてきたのは、およそ半時間もたってからのことだった。  一同は放心したように立っている菊池のそばへよって、咲き乱れた花の底へ眼をやったが、そのとたん誰ひとりとして、声なき悲鳴をあげて、うしろへたじろがぬものはなかった。  美しい左の脚はあいかわらず、膝をまげて立っている。そしてそのうえに右の脚がのっている。皮のサンダルをひっかけた|爪《つま》|先《さき》の、つやつやとした爪紅が美しかったが、しかし、その二本の脚は|太《ふと》|腿《もも》までしかなかった。つまり、切断された脚だけが、美しいお花畑に生えているのだ。  素晴らしい悪魔の構図である。     生意気なボーイ  じっさい、どのような悪魔の|悪戯《いたずら》としても、これほど残酷に、これほどひとの意表に出ることはないであろう。かれはまるで、きょうの美の|饗宴《きょうえん》を|嘲弄《ちょうろう》するかのように、女の血と肉をもって、このうえもなく奇抜なポーズをえがき出してみせたのだ。常人の神経では、とても考えおよばないであろうような。  健三も菊池も加納博士も、それから西村鮎子も武智マリも、まるで悪酒にでも酔いしれたような眼つきをして、この美しくもまがまがしい二本の脚を視つめている。  陽はうららかに輝いている。花はかぐわしく|匂《にお》っている。しかし、かれらにとっては、いっとき、この世から生活の鼓動も時の流れも、ぴったりと、静止してしまったような感じであった。  とつぜん、健三のそばに立っている、あの虫の好かぬボーイが憤然として、トルコ帽をかなぐり捨てた。それから、|雀《すずめ》の巣のようなもじゃもじゃ頭を、めった、やたらと|掻《か》きまわした。 「こ、こ、これは……」  と、虫の好かぬボーイは猛烈にどもり、それから気がついたように、ごくりと|生《なま》|唾《つば》をのみくだすと、異様にきらきら輝く眼で、一同の顔を|睨《ね》めまわしながら、 「この脚は……この二本の脚は、あなたがたが探していらっしゃる、都築貞子という婦人の脚にちがいありませんか」  と、一句一句に力をこめて、|詰《きつ》|問《もん》するような調子である。  わかい健三はいささかむっとした。  なんという失敬なやつだ。ボーイの分際で客にむかって、対等のききかたをするさえ|無《ぶ》|礼《れい》|千《せん》|万《ばん》だのに、われわれを被告あつかいにして詰問するとは……。  そこで、健三はわざとそっけなく答える。 「そんなこと、まだわかりゃしないよ。しかし、常識として……」 「いや、失礼しました。わたしのお|訊《たず》ねしたかったのは、貞子という婦人の脚部には、何か目印にでもなるような、ものはなかったかということなんですが。……」  菊池は急に気がついたように、身をかがめて一歩乗り出す。 「あっ、お触りになっちゃいけませんよ。こんなばあい、警官がくるまでは、何物にもさわっちゃいけないということは、ご存じでしょうね」  もっともらしいボーイの注意に、一同は顔を見あわせる。ボーイにリードされるなんて、あんまり愉快な気分ではない。  なんという生意気なやつだと、健三はおだやかならぬ顔色である。  菊池は身を起こしたが、しかし、ボーイを無視するように、わざと加納博士と健三にむかって、 「お貞……いや、都築貞子にちがいないようですね。べつにほくろだの|痣《あざ》だのという、目印があるわけではないが、ぼくはきょうこの女をモデルとして、数枚写真を撮ったので、とくに印象が新しいんです。都築貞子にちがいないように思いますね」 「そんなこと、お貞の体の他の部分を発見すれば、すぐに解決がつくことだ。お貞の首や胴はどこにあるんだ」 「首や胴……?」  と、虫の好かぬボーイは|訊《き》きとがめて、 「すると、あなたはこの婦人の、首と胴も|斬《き》りはなされてるとお思いになるんですか」  健三はぎくっとしたように身をふるわせたが、ここにいたって、とうとう怒りが爆発した。 「なんだ、君は……なんの権利があって、そんな口のききかたをするんだ」 「いや、失礼しました」  ボーイはかるく頭をさげると、こんどは加納博士のほうへ向きなおった。 「加納先生、先生にちょっとお訊ねしたいことがあるんですが……」 「どういうこと?」  加納博士もふしぎそうに、この生意気なボーイの顔を視まもっている。 「先生は専門家だからおわかりでしょうが、この斬り口ですね。これ、|玄人《くろうと》でしょうか。|素人《しろうと》でしょうか」  加納博士はじろりとボーイに|一《いち》|瞥《べつ》をくれたのち、花の底の斬り口へ眼をやって、 「さあ、もっとよく調べてみなきゃわからんが、ここからこうして見たところでは、専門家のやったこととは思えないね。このぶざまな斬り口から見てね」 「なるほど。それで胴から二本の脚を切りおとすにはいったい、どのくらい時間がかかるでしょうかねえ」 「それは刃物にもよりけりだが……。鋭利な刃物なら素人にだって、短時間に斬りおとすことができるだろうよ」 「短時間というとどのくらい……?」 「だから、刃物にもよりけりだというんだが……」  加納博士はそれ以上はいわず、ぎゃくに怪しむように相手の顔を視まもりながら、 「君はいったい、どういうひとなの。ボーイさんにしちゃ、少し……」 「いやあ、なんでもありません。ああ、どうやら支配人が警官をつれてきたようですね」  そこから船着き場は見えなかったが、がやがやと|罵《ののし》りさわぐ声と足音が、雑木林をぬうてこっちのほうへのぼってくる。共栄美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》のマネジャー、広田圭三の|興《こう》|奮《ふん》した声もまじっている。  いま、警官たちののぼってくる路は、さっきじぶんたちの駆けつけてきた路と、すこし方角がちがっているようだと思う間もなく、だしぬけに、誰かが、 「わ、わ、わあっ……」  と、世にも異様なさけび声をあげたかと思うと、あたかもそれが|柝《き》の|頭《かしら》ででもあったかのように、警官たちのざわめきも足音も、ぴたりとそこに静止してしまった。まるで、凍りついたように……。  ボーイはぎくっとそのほうへ耳をかたむけたが、すぐ身をひるがえして、 「何か、あったらしい。ひょっとするとこの女の、他の部分が発見されたんじゃないか」 「よし、いってみよう」  一歩さきをいくボーイのあとを追っかけて、一同は|揉《も》みあうようにお花畑をとび出した。 「本多さん、本多さん」  ボーイが呼ぶと、 「あっ、|金《きん》|田《だ》|一《いち》先生、こちらです。こちらです!」  と、下から呼びかえす支配人の声がただごとではない。  金田一先生。……と、支配人の呼ぶ名をきいたせつな、健三はぎくっとしたように、まえをいくボーイのうしろ姿へ眼をやった。それからきっと唇を|噛《か》みしめたが、その顔色は幽霊にでも出会ったように|真《ま》っ|蒼《さお》だ。  それはさておき、警官たちが立ちすくんでいるその場所まで駆けつけたせつな、一同はまたしても、声なき悲鳴をあげて、二、三歩うしろへたじろいだ。    第四章 沐浴する女  そこはせまい池のそばである。  いうまでもなくこの池は、さっきみんながボートでわたってきた池とはちがっていて、小島の中腹にある、五十坪ばかりの浅い池である。  池のむこうはひくい|崖《がけ》になっていて、そこから小さな滝がちろちろと落ちている。池のなかには|水《すい》|蓮《れん》がいちめんに咲いている。その水蓮にとりかこまれて、水のなかに女がひとり、肌もあらわに、からだをくの字なりにくねらせて|坐《すわ》っているのだ。  ばらりととけた黒髪が肩から、かがやくばかりにゆたかな乳房へかかって、女は両手で、その黒髪をくしけずっている。……と、いうポーズなのである。  腹部からしたは水につかってみえないが、そのへんいったい、池の水があかくそまって、水に接する部分の女の肌には、うごめく房のように|蛭《ひる》がぶらさがっている。  いうまでもなく都築貞子である。  悪魔の構図の題名は、おそらく「沐浴する女」——と、でもいうのだろう。  ヒューッ!  と、ひと声、ふしぎなボーイが口笛を吹いた。それから、にこにこと健三のほうへ向きなおると、 「建部さん、首と胴と斬りはなされていなくて仕合わせでしたな。もし斬りはなされていたら、あなたの予言が的中したことになり、ちょっとむずかしくなるところでしたからね。あっはっは」  と、のんきらしく笑う。  しかし、健三はそれに対して、食ってかかる気力をうしなっていた。|蒼《あお》ざめて、こわばった顔に、じっとりと汗が吹き出している。健三はどうやら、この生意気なボーイを知っているらしい。  ふしぎなボーイは、一同のさぐるような視線を完全に無視して、支配人のほうへむきなおると、 「本多さん、本多さん、東京へ電話かけてくださいましたか」 「はあ、あの、かけました」  本多支配人はすっかりあがってどぎまぎしている。かれはこの事件が、今後どのようにホテルの経営に、影響してくるかということを案じているのだ。 「それで、うまくかかりましたか」 「はあ、あのかかりました」 「等々力警部は……?」 「警視庁から自動車で、こちらへ急行されるそうです」  等々力警部——と、聞いて、加納博士や菊池陽介、さては西村鮎子や武智マリの、ふしぎなボーイを見る眼つきに、また、どきっとしたような色がうかんだ。  胸に金筋三本に星ひとつという、警部補の制服をつけたこの土地の係り官も、ふしぎそうに|眉《まゆ》をひそめて、支配人になにやら|訊《たず》ねていた。それに対して支配人が、あたふたと、ふたことみこと答えると、警部補はびっくりしたように眼を視張り、ふしぎなボーイのほうへむきなおった。 「失礼しました。それじゃあなたがあの有名な、金田一耕助先生でいらっしゃいましたか」  金田一耕助——と、いう名を聞いて、加納博士や菊池陽介も、はっとしたように、ふしぎなボーイの顔を見なおす。かれらもこの有名な探偵さんの名前は知っていたらしい。 「いやあ、べつに有名ってわけじゃありませんがね。主任さんはぼくの名をご存じでしたか」  警部補のあからさまな讃美の視線をまともにうけて、金田一耕助はすっかり照れている。 「はあ、うかがっております。まえにいちど、|月《げっ》|琴《きん》|島《とう》の大道寺家の事件のとき、こちらのほうへおいでになりましたね。あのときの素晴らしいお働きを、いろいろうかがっているものですから。……」  月琴島の大道寺家に起こった事件は、『女王蜂』のなかに書かれている。 「ああ、それは、それは……」  と、金田一耕助はいよいよ照れて、 「それじゃあね、主任さん、とにかく、警視庁から等々力警部がお見えになるまで、誰もこのホテルから出さないように。それから、この島へは、警察のひと以外は、入れないほうがいいでしょう」 「承知しました」  警部補がなにかささやくと、すぐに刑事のひとりが立ち去った。おそらくホテルの見張りをするためだろう。  警部補は金田一耕助のほうへむきなおって、 「しかし、先生、これはいったい、どういう事件なのですか」 「これはね、たぶん、幽霊男の事件の一部分だろうと思うんです」 「ゆ、ゆ、幽霊男!」  幽霊男の名はもう全国に知れわたっている。わかい警部補をはじめ、そこにいあわせた刑事たちが、すっかり昂奮したのもむりはない。 「それじゃ、これは幽霊男のしわざなんですか」 「たぶんそうだろうと思います。これがいつか幽霊男の予告した惨劇の、第二幕目なんですね」  警部補は怪しむようにじろじろと、金田一耕助の服装を見ながら、 「そして、先生はこういう事件が起こるだろうということを、あらかじめ、知っていられたんですか」 「いやあ、そういうわけじゃありませんが……的確にそれを知っていたら、なんとかして防いだでしょうからね」  そこで金田一耕助は、加納博士のほうへむきなおると、 「先生、あなたがた三人が、きょうの催しの幹事でしたね」 「ええ、そうです。そうです」 「それじゃ、恐れいりますが、むこうへおいでになったらみなさんに、警察の許可なしには、このホテルを出ないようにとおつたえ願えませんか」 「承知しました」 「本多さん、ご案内してあげてください」 「はあ」  本多支配人の案内で、一同がそこを立ち去りかけたときである。 「あっ、ちょっと待ってください」  と、さっきから、池のなかをじゃぶじゃぶあさっていた刑事が、だしぬけにうしろから呼びとめた。 「はあ……」  一同がふりかえると、 「このハンケチ、どなたか見おぼえがありませんか」  刑事のつまんでみせたのは、ぐっしょりと水にぬれた女持ちのハンケチである。その新しさから見ても、それほど長く水につかっていたものでないことがわかる。 「ああ、木村君、そのハンケチが……?」 「この水蓮の根もとに落ちていたんです」  警部補はハンケチを受け取ってひろげると、 「あいにく、イニシァルがないね。でも、ここに|薔《ば》|薇《ら》の模様が|刺繍《ししゅう》してある。どなたかこういうハンケチに見おぼえのあるかたはありませんか」 「さあ。……」  西村鮎子は眉をひそめて、 「それ、ひょっとすると、お貞ちゃんのじゃないかしら」 「お貞ちゃんというと……?」 「そこに……殺されている……そのひと……」  と、鮎子は顔をそむけて、 「マリちゃん、あんた知らない?」 「いえ、あの、あたし、知らないわ」  この恐ろしい事件に|動《どう》|顛《てん》しているのか、マリの顔は土色にそそけ立っている。     ホテルから消えた男  あまり大事件を手がけたことのない、その田舎町の警察署員は、酸鼻をきわめた地獄絵巻の洗礼をうけて、極度に|興《こう》|奮《ふん》し、|狼《ろう》|狽《ばい》し、てんやわんやの状態だった。  誰もかれも逆上して、むやみに怒鳴りちらし、わめきたて、必要以上にそそくさと、そこらじゅうを駆けずりまわった。  かれらはみんな知っているのだ。今夜の夕刊によって、S署の名前が全国に|喧《けん》|伝《でん》されるであろうことを。そして、ひょっとすると××警部補談とか、△△刑事語るとか、写真入りで新聞に出るかも知れないのだ。だから、うまくやらなければならないではないか。  金田一耕助は|悍《かん》|馬《ば》のようにたけりたつ、係り官たちの|手《た》|綱《づな》をひきしめるのに苦労しなければならなかった。  それでも、やっとふたつの現場写真がとれ、いろんな検証の結果から、都築貞子の両脚が切断されたのは、あの池のなからしいということがわかったのは、もうかれこれ二時過ぎのことだった。  駆けつけてきた医師の綿密な調査の結果、都築貞子は両脚を切断されるまえに、|細《ほそ》|紐《ひも》ようのもので絞殺されたらしいことがわかった。犯人は都築貞子を絞殺したのち、池のなかで両脚を切断し、脚をうしなった貞子の上半身に「|沐浴《ゆ あ み》する女」のポーズをとらせ、両脚だけお花畑へはこんでいって、あの花園のグロテスクをえがき出したのだ。  なんのためにそんなことをやったのか。……などとセンサクすることは野暮である。  幽霊男の犯罪には、これという動機も理由もないのだ。かれはただ血に飢えて、血みどろな地獄絵巻きを演出することだけに情熱をかたむけているのだ。幽霊男の犯行に、しかつめらしい動機を追究することは、|愚《ぐ》の|骨頂《こっちょう》と思われる。  こうして、ひととおり現場の検証をおわると、金田一耕助は安井警部補をともなって、ホテルのヴェランダへひきあげてきた。そこで本多支配人のサーヴィスになる、おそい中食をしたためると、 「等々力警部の到着するのは、どうせ夕刻になるだろうと思います。それまでにひととおり関係者の|訊《き》きとりをしておかれたら。……」  と、金田一耕助の忠告に、安井警部補もいなやはなかった。  かれはいまや自分の名前が、全国に喧伝されるであろうことを夢想して、希望に胸をふくらませているのだ。だから、ここには安井警部補と関係者たちの、一問一答をちくいち記述すべきなのかもしれないけれど、それはいたずらに読者諸君を、退屈させるだけのことだと思われるので、得意満面の警部補どのには、いささかお気の毒ながら、それらの一問一答の結果、えられた事実だけを、出来るだけ簡単に、要約してお眼にかけることにしよう。  まず、都築貞子の生きている姿が、さいごに見られた時刻だが、それは午前十時ごろのことだった。  貞子は菊池のモデルになって、花園のあちこちで数枚のヌード写真をとらせたのち、十時ごろ菊池といっしょに、ヴェランダへかえってきた。しかし、彼女はヴェランダへはあがらず、菊池とわかれてただひとり、庭のおくへ歩いていった。  これには菊池陽介のみならず、建部健三、西村鮎子、武智マリ、その他おおぜいの証人があった。 「貞子はあなたとわかれるとき、なにかいってませんでしたか。誰かと約束があるというようなことを……」  と、安井警部補の質問に対して、 「いいえ、べつに。……ただ、きょうはなんだか気分が悪いから、モデルになるのはいやだというようなことを言ってましたがね」  と、いうのが菊池陽介の答えであった。  貞子の顔色のすぐれなかったことについては、ほかにもたくさん証人があり、結局、貞子はモデルにされるのがいやで、ひとめを避けて離れ小島で、休息しているところを幽霊男におそわれて、やられたのだろうということになった。  切断された貞子の死体が発見されたのは、十一時半ごろのことだから、死体切断の時間を見込んで、貞子が殺害されたのは、おそらく彼女が離れ小島へつくとまもなく——たぶん、それは十時半ごろのことだったろうと思われる。  と、いうことはきょうの午前中、幽霊男はこのホテルの、どこかに潜伏していたということになるのだ。  それはさておき、三時ごろになって、|血眼《ちまなこ》になって現場付近を捜査していた、捜査陣をわっと興奮させるようなことが起こった。死体切断に使用されたと思われる、ひと組の凶器が発見されたのだ。  鋭利なメス、|鋸《のこぎり》、|鋏《はさみ》の類からなるこれらの凶器は、古ぼけたスーツ・ケースにおさめられ、ホテルの奥庭から裏山へ抜ける間道のほとりの、むかしの|防《ぼう》|空《くう》|壕《ごう》のあとに捨てられてあった。 「主任さん、主任さん、凶器が見つかりましたよ。凶器が……」  興奮した刑事のひとりが、スーツ・ケースをひっさげて、ヴェランダへ駆けつけてきたとき、ちょうどそこには本多支配人もいあわせたが、ひとめ、スーツ・ケースを見ると、ぎょっとしたように眼を視張った。 「な、な、なんですって? そ、それじゃ、そのスーツ・ケースのなかに凶器が……?」  支配人の驚きようがあまり大きかったので、金田一耕助と安井警部補は、ぎくっとしたように振り返る。 「本多さん、あなた、このスーツ・ケースをご存じですか」 「はあ、あの、ちょっと……」  と、支配人はふるえる指で、スーツ・ケースを改めていたが、 「たしかにこのスーツ・ケースでした。きのう午過ぎお着きになったお客様が、ぶらさげていらっしゃいましたので……」 「きのうの午過ぎって、それじゃ、ぼくが来るまえですね」 「はあ、金田一先生がお見えになるより、二時間ばかりまえでした」 「しかし、支配人、きのうからきょうへかけては、猟奇クラブの連中以外、このホテルへ入れない約束じゃなかったんですか」 「いえ、それが、おとついの晩おそく、加納先生からお電話がございまして……」 「加納先生から……?」 「はあ、あの、さようで。今度の催しをここでお開きになったのは、みんな加納先生のお|肝《きも》|煎《い》りなんでして。……その先生から一昨日の晩お電話がございまして、だいたいみなさん夕刻ごろお着きになるはずだが、ひとりだけ先行させるから、なにぶんよろしくとのことだったんです。それでお待ちしておりますと、果たしてきのう一時ごろ、そのスーツ・ケースをぶらさげたかたが、ひとりでお見えになりましたので。……そういえばあのお客様、みなさんがお着きになってからも、気分が悪いとおっしゃって、部屋からお出になりませんでしたが……」 「いったい、どんな|風《ふう》|態《てい》の人物だったの」 「そうですね。|年齢《とし》は二十前後ではないでしょうか。中肉中背というよりいくらか小柄で、粗いチェックのオーヴァにともぎれのハンチング、それに大きな黒眼鏡をかけていらっしゃいましたので、ほとんどお顔は見えませんでした。乗り物に酔うたのか、なんだか気分が悪いとおっしゃって、すぐお部屋へお入りになりましたが……ちょっと、ボーイを呼んで聞いてみましょう」  すぐに三人のボーイが呼ばれたが、かれらもみんなそのスーツ・ケースをおぼえており、そういえばその男は、けさまでたしかにこのホテルにいたが、ほかの会員とまじわろうとしないので変に思っていたというのである。  警部補はそれを聞くと、すぐにホテルの内外を捜索させたが、むろん、そのころにはもう不思議な客のすがたは、どこにも発見することは出来なかった。  それにしても、粗いチェックのオーヴァにともぎれのハンチング、大きな黒眼鏡をかけた男という以外、誰もその客の人相を見きわめていないところを見ると、そいつははじめから、よほど用心していたにちがいない。  幽霊男だろうか。     現実逃避 「おとついの晩、わたしが電話をこのホテルへ……?」  加納博士はびっくりしたように眼を視張る。陶器の皿を思わせるような、ぎらぎら光る大きな眼だ。 「いいえ、そんなはずはありませんね。だいいち、わたしはこのホテルの電話番号さえしりませんよ」 「しかし、支配人はたしかにあなたから、電話がかかったといってるんですがねえ」  安井警部補は疑いぶかそうな眼で、加納博士の顔を見る。  金田一耕助はまだホテルのボーイの制服のまま、安楽|椅《い》|子《す》にふんぞりかえって、興味ぶかそうな眼で、この高名な外科医の表情を視まもっている。  とりあえず捜査本部にあてられた階下の一室である。  窓のそとには三々五々、猟奇クラブの会員や、モデルたちがつれだって、しょざいなさそうな散策をつづけている。これはあたかも、番犬にとりかこまれた、羊の群のようなものである。しかも、かれらの頭上には、いま恐ろしい|嵐《あらし》がおそいかかっているのだ。羊の群がおどおどと、敏感になっているのもむりはない。  加納博士は強い音をさせて、|咽喉《のど》にからまる|痰《たん》をきると、「それはなにかの間違いでしょう。いや、それとも誰かが、わたしの名をかたったのかもしれない。支配人はたしかにわたしの声だったといってましたか」 「いや、それは……」  と、警部補はちょっと鼻じろんで、 「なにしろ遠距離のことだし、ガーガー雑音がまじったので、はっきりしたことは言えないと言ってましたが、しかし、とにかく支配人は、あなただとばかり信じていたようです」 「しかし、わたしではなかったのです」  加納博士はきっぱりと、断定するような語調である。  金田一耕助は安楽椅子から身を起こして、 「加納先生、おとついの晩の電話ですがねえ、かりに誰かがあなたのお名前をかたったとして……」 「いや、かりにじゃないんだ。たしかに誰かがわたしの名前をかたったんだ」  加納博士は射すくめるような眼で、ギロリと金田一耕助を見る。耕助はほほえんで、かるく頭をさげると、 「いや、失礼しました。それで、あなたの名前をかたったやつですが、それが誰だかお心当たりはありませんか」 「ないね、見当もつかんね」  加納博士はそっけなくいいはなったが、すぐ言葉をついで、 「ねえ、金田一先生、わたしはあんたの名前はよく知っている。だから正直に申し上げるんだが、これがかるい冗談かなんかなら、そういう|悪戯《いたずら》をする連中、いくらでも心当たりはある。いや、このクラブのメンバー、そういう連中ばかりだといってもいいくらいだ。おたがいにかついだりかつがれたり、罪のない悪戯やなんかで楽しもうじゃないかという連中があつまって、浮世を茶にして送ろうというのが、そもそも、この猟奇クラブの趣旨なんだからね」 「つまり現実逃避ですな」 「そうそう、その逃避です。なにしろ、こういう暗い世相ですからな。それから逃避して、おもしろおかしく遊ぶ時間を持とうじゃないか、そして、わずかの時間でも、この暗い世相を忘れていようじゃないかというのが、会員諸君の一致した気持ちなんです。だからこれが軽い悪戯だとか、罪のない冗談だとかいうなら、わたしの名前をかたるくらい、平気な連中ばかりです」 「しかし、これは冗談じゃない」  重っくるしく、つぶやく警部補の顔をじろりと見て、 「だから、見当もつかんといってるんだ」  加納博士は吐き出すようにいいはなつ。 「しかし、先生、それが誰であったにしろ、そいつはかなり、クラブの内情に精通したものだということはいえますね」 「ふむ、だから不思議だと思ってるんです」 「ときに、先生」  金田一耕助は語調をかえて、 「先生はきのうどうして、ほかの会員諸君と同行されなかったんですか」 「それがね、昨夜、ちょっと大きな手術をやらねばならん予定があったもんだから。……」 「予定というと……?」  加納博士はいやな顔をして、 「それがじっさいは、手術をせずにすんだんでね」 「ああ、なるほど、それじゃ結果からいえば、みんなと同行してもよかったということになるんですね」  加納博士はまたいやな顔をする。 「ときに、けさ先生が東京をおたちになったのは……?」 「六時半ごろのことだったかな」 「六時半……? 先生がお着きになったのは、十二時半ごろのことでしたよ。六時間もおかかりになるというのは……?」 「途中で道に迷ったんだ」  おこったように言いはなつ加納博士の眼が、またぎらぎらと、西洋皿のような|光《こう》|沢《たく》をおびてくる。耕助はしかし平然として、 「先生はご自分で運転しておいでになりましたね。ほかにどなたも、連れはありませんでしたね」 「金田一君!」  加納博士の眼にさっと殺気がほとばしる。しかし、すぐに思いなおしたように、咽喉のおくでひくく笑うと、 「金田一先生、あんたはわたしのアリバイ調べをやってるんですね。わたしがあの時刻よりもっとはやく到着して、貞子を殺し、解体したのち、またここを立ち去って、あの時刻に何食わぬ顔をしてやってきたんじゃないかという。……」 「先生は途中で道に迷ったという証明ができますか」  加納博士の眼にまた殺気がほとばしりかけたが、すぐ投げ出すように、 「それは出来そうもないな。わたし自身、道に迷ったところをおぼえておらんくらいだから。……しかし、わたしがなぜ貞子を殺すだろう」 「現実逃避だの猟奇だのって遊戯は、度がすぎると、とかくより強い|刺《し》|戟《げき》がほしくなるものですからね」 「なに!」  加納博士の毛がさっと逆立つ。博士は|椅《い》|子《す》の腕木を両手でつかんで、まるで金田一耕助におどりかからんばかりの身がまえだったが、耕助は平然として、デスクの下からスーツ・ケースをひっぱり出した。 「先生、これ、専門の外科医の使用する道具ですね」  スーツ・ケースの内容を見て、加納博士の眼がまた大きくひろがった。 「さきほど、刃物にもよりけりだということでしたが、こういう専門の道具を使えば、いったい、どれくらいの時間で、ああいう解体が出来るでしょうか」 「それは……腕にもよるが……十五分か、二十分もあれば……」 「いや、ありがとうございました。それではこれくらいで……」  金田一耕助はていねいに頭をさげる。     一日にふたり  東京から等々力警部の一行が、自動車で乗りつけてきたのは、四時半ごろのことだった。  警部は金田一耕助の服装を見ると、まず、驚きの眼をみはった。 「金田一さん、あんたそのなりは……?」 「あっはっは、ちょっとお芝居をしてみたんです。きのうからきょうへかけてこのホテルへは、猟奇クラブのメンバー以外、客はいれないということになっているんで、支配人に頼みこんで、ボーイに化けさせてもらったというわけです」 「それじゃ、あんたはきょうここで、何か起こるだろうということを知ってたんですか」 「まさか。……はっきり知ってたら、なんとか予防策を講じますよ。しかし、まあ、なにか起こるんじゃないかという、漠然たる予感はあったんですね。それがまんまと犯人に先をこされたんだから、金田一耕助、面目まるつぶれというわけでさあ。あっはっは」  等々力警部は疑わしそうに、金田一耕助の顔を視まもりながら、 「金田一さん、あんたいつからこの事件に、首をつっこんでいるんです」 「きのうからですね。さる人物から、この事件を調査してくれるようにという、依頼をうけたもんですからね」 「さる人物とは?」 「それは言えません。業務上の秘密ですからね」  等々力警部はいまいましそうに耕助の横顔をにらんでいる。いったん、言えないといったがさいご、こんりんざい口をわる男ではない。 「警部さん、警部さん、そんな眼をしてぼくを視てるひまにゃ、捜査を開始してください。こんなこと、いつまでもつづくと、警視庁の威信にかかわりますぜ」 「とにかく、話をしてください」  そこで金田一耕助と安井警部補がかわるがわる、いままでの経過を語ってきかせると、 「なるほど、するといまのところ疑わしいのは、チェックのオーヴァを着た人物ということになるんですね。ところで、そいつの捜索は……?」 「もちろん、ただちに非常線を張りましたが、なにしろ、支配人がその話をしてくれたのが三時すぎのことなんです。犯行の時刻を十一時前後と推定すると、その間、四時間のギャップがありますからね。いまにいたるも、なんの情報も入って来ないところを見ると、すでに手おくれだったんじゃないかと思うんです」  安井警部補はいささかしょげぎみである。等々力警部はおそろしい凶器をひそめた、スーツ・ケースに眼をやって、 「ところで、そのチェックの男が、このスーツ・ケースを持ちこんだということは、たしかなんでしょうね」 「ええ、それはまちがいないようです。支配人と三人のボーイの証言が、完全に一致してますからね。ところで、警部さん、ぼく、ちょっと変に思うことがあるんですよ」 「なにが……」 「ここに|鋸《のこぎり》とメスと|鋏《はさみ》が入ってますね。しかし、ただこれだけだったら、ぶらさげて歩くたびに、がたがたと音がしますよ。だから、当然、このスーツ・ケースのなかには、なにか詰め物が入っていなければならぬはずなんです。ところがその詰め物がどこにもない。ぼくはこのスーツ・ケースが発見されると、すぐその付近を探し、また、刑事さんたちにも頼んで探してもらったんですが、いまにいたるも、詰め物だったらしい品物を発見することが出来ないんです。と、いうことは……」 「と、いうことは……?」 「チェックの男が持ち去ったとしか思えませんね。では、なぜたいせつな証拠の凶器をのこしながら、詰め物だけ持ち去ったか。……つまり、それは単なる詰め物ではなく、チェックの男にとっては、必要欠くべからざる品だったんじゃないかと思うんです」 「必要欠くべからざる品というと……?」 「それは、ぼくにもまだわかりません」  金田一耕助はポツンといってかんがえこむ。等々力警部は疑わしそうな眼付きをして、その横顔を視つめていたが、そこへ刑事のひとりが、勢いこんでとびこんできた。 「主任さん、主任さん、現場の池の底から、こんなものが出てきたんですが……これ、池のなかへ落ちてから、そんなに時間はたっていないと思うんですよ」  それは一辺が六センチぐらいの、朱色の四角なコンパクトで、中央に直径三センチほどの円形の|唐《から》|草《くさ》模様が銀で象眼してある。開いてみると、なるほど、内部にはほとんど水が浸透していなかった。 「これ、池のどのへんにあったんですか」 「池のすぐふちです。浅く泥をかぶって埋まっていたんです」 「とにかく、西村鮎子にきいてみましょう」  西村鮎子はそのコンパクトをひとめ見るなり、武智マリのものにちがいないと証言した。都築貞子を捜しにいくまえ、マリがヴェランダで、ガウンのポケットから取り出して、そのコンパクトを使っていたのをおぼえている。……  金田一耕助はそれを聞くと、びっくり箱から跳び出す、ゼンマイ仕掛けのおもちゃのように、ぴょこんと、安楽椅子からとびあがった。 「刑事さん、刑事さん!」  と、金田一耕助はいきをはずませ、 「すぐにマリをつれてきてください。マリは菊池さんとわかれて、われわれを呼びにくるとちゅう、路にまよって、あの池のそばを通ったにちがいない。そのとき、このハンケチが風にとんで池へはまった。マリはそれをとろうとして、池のふちへしゃがみこんだが、そのとき、ガウンのポケットから、このコンパクトがすべりおちたんだ。それにもかかわらず、マリがこのハンケチを知らぬといっているのは、なにか今度の事件について、知っていることがあるからにちがいない!」  刑事はすぐに部屋からとび出したが、しかし、いくら待ってもかえってこない。  金田一耕助がたまりかねて、ドアの外へ出てみたところへ、引きかえしてきた刑事の顔は、|狐《きつね》につままれたようにきょとんとしている。 「金田一さん、マリの姿はどこにも見えないんです。誰にきいても知らんというんです」  金田一耕助はしばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》たる眼ざしで、まじまじと刑事の顔を視つめていたが、とつぜん、部屋のなかをふりかえったその顔は、なにかに|憑《つ》かれたように|物《もの》|凄《すご》かった。 「主任さん、みんな総動員してマリを捜してください! 警察のひとも、ホテルの従業員も、それから猟奇クラブの会員たちも……」 「金田一さん!」  等々力警部の叫びをあとにして、金田一耕助はそれだけいうと、狂ったように廊下を走っていく。現在ホテルの内部にある、人間という人間を総動員して、ホテルの隅から隅までさがしたあげく、武智マリが発見されたのは、それから半時間ほどのちのことだった。  マリは地下のボイラー室のかたすみで、首を絞められて死んでいたのだが、そのみなりというのがかわっていた。  彼女はうつくしいヌードのうえに、チェックのオーヴァを着て、ともぎれのハンチングをかぶり、大きな黒眼鏡をかけていた。まるで、金田一耕助の無能をあざ笑うかのように。…… 「ああ、畜生! 一日にふたりだ」  金田一耕助はうめいた、うめいて、そしてよろめいた。     共犯者 「畜生! 畜生! 警部さん!」  と、金田一耕助はくやしそうに、バリバリと歯をかみならしながら、 「マリはやっぱり何かしっていたんだ。犯人にとって都合のわるいことを。……犯人もマリが何かさとったことに気がついた。そこで危険をおかして、マリを殺害してしまったんだ。畜生! 畜生! 幽霊男め!」  金田一耕助はボーイの帽子をかなぐりすて、|雀《すずめ》の巣のようなもじゃもじゃ頭を、髪の毛も引きぬかんばかりに|掻《か》きむしる。紅をそそいだように|頬《ほお》が紅潮して、熱病患者のように眼がギラギラと殺気立つ。  等々力警部も耕助が、こんなに|激《げき》|昂《こう》するのを見たことがない。 「まあ、まあ、金田一さん」  と、いつもとは逆に警部のほうが慰めて、 「出来たことは仕方がない。それよりもマリはいつ殺害されたか。……」 「あっ、そうだ、主任さん」  と、耕助はあまりのことに、ポカンとしている安井警部補をふりかえって、 「むこうに加納先生がいますから、ここへ呼んでください。あのひとは外科が専門だが、これくらいのことはわかるだろう」  警部補のあいずに、すぐに刑事のひとりが走っていったが、間もなく加納博士をつれてきた。  マリの死体を見ると、博士はちょっと|眉《まゆ》をつりあげたが、すぐ、無言のままひざまずいて、ていねいに死体をあらためる。  しばらくして、博士はズボンの|塵《ちり》をはらって立ちあがると、 「解剖して見なければはっきりしたことはいえんが、死因は絞殺、これはわたしがいうまでもなく、すでに御承知だろう」 「それで、死後の経過時間は……?」 「これも、正確なことはいえんが、だいたい、一時間というところでしょうな」  金田一耕助は腕時計を見る。腕時計の針は五時半を示している。 「すると、われわれがさがしはじめるより、半時間ほどまえ、すなわち、警部さんが到着なすった時分ということになりますな。加納先生」 「…………?」 「あなたはその時刻……すなわち、四時半ごろには、どこで、何をしていらっしゃいましたか」  加納博士の眼が怒りのために燃えあがる。何かはげしい口調でいおうとしたが、すぐに思いなおしたように、|咽喉《のど》のおくでしゃがれた笑い声をあげると、 「さあ、その時分にはあんまり愉快でない気持ちで、庭のおくを散策してたでしょうな」 「ひとりで……?」 「ええ、ひとりで」 「あんまり愉快でない気持ちというのは……?」 「誰だって愉快な気持ちにゃなれませんよ。あんたに変な疑いをかけられて、とっちめられたんですからな。あっはっは」  加納博士は|冷嘲《れいちょう》するように、また、咽喉のおくでしゃがれた笑い声をあげる。金田一耕助はさっと頬に血の気ののぼるのを覚えた。 「それじゃ、先生にはアリバイがないというわけですな」 「ま、そういうことになりましょうな。誰かがひとりで歩きまわっている、わたしの姿を見ていてくれて、証明でもしてくれればべつですがね」 「いや、どうも失礼しました。じゃ、どうぞお引きとりください」  金田一耕助のおもてに、じろりと横柄な|一《いち》|瞥《べつ》をくれて、無言のまま地下室を出ていく、加納博士のうしろ姿を見送って、 「いや、あの先生にゃいつもてこずるよ。なかなか口をわらないからな」  等々力警部がつぶやいた。しかし、耕助はその言葉を耳にも入れず、安井警部補をふりかえって、 「とにかく、主任さん、四時半前後にはチェックの男は、まだこのホテルにいたんです。もう一度捜査をしなおしてください」 「しかし。……」  と、安井警部補はとまどいしたように、 「オーヴァも、帽子も黒眼鏡もおいてったとすると、今度は何を目印に……?」 「とにかく、二十前後の、このへんに見なれない男、と、いうのを標準として探してみてください。たぶん、もう駄目だと思いますがね」  金田一耕助は|自嘲《じちょう》するような口ぶりである。 「もう駄目だというのは?」  等々力警部がたずねた。 「犯人のやりくちが、あまり自信にみちているからですよ。犯人にはつかまらないという、強い確信があったにちがいないんです。畜生! 畜生! 幽霊男め!」  金田一耕助はまた髪の毛をかきむしる。 「とにかく、安井君」  と、等々力警部は警部補のほうをふりかえって、 「ホテルの内外から、停車場、自動車の乗り場など、もう一度よく洗ってみてくれたまえ。この女が殺されたのが、一時間まえだとすると、犯人はまだそのへんにうろうろしてるかもしれない」 「はっ!」 「それから犯人のアリバイ調べもやってもらおう。四時半前後のね」 「しかし、たぶん、それも無駄でしょうがねえ」  金田一耕助は情けなさそうに|溜《た》め|息《いき》をつく。げんざい自分のいるところで、一日にふたりもやられたので、いささか自信をうしなったのかもしれぬ。 「金田一さん、そんなことを言ってちゃいけない。とにかく向こうへいこう」  等々力警部はがっかりしている耕助の手をとって、もとの部屋へかえってくると、 「金田一さん」  と、声をひそめて、 「あんた、加納博士をくさいと|睨《にら》んでるんですか」  耕助はものうげに首を左右にふると、 「いいえ、ぼくはまだ白紙なんですがね。ぼくの依頼人というのが、加納博士じゃないかというんです。なにかのやりくちがねえ」 「あなたの依頼人というのは……?」 「いいえ、それは言えませんよ。さっきもお断わりしたようにねえ。しかし、警部さん、加納博士というのは、いったい、どういう性格の人物なんですか。ぼくはまだこの事件に、首をつっこんだばかりだから、よくわからないんですが……」 「ああ、あの先生はね」  と、いいかけて、警部はぎょっと呼吸をのんだ。いままですっかり、自信を喪失していたかに見えた耕助の眼が、とつぜん、いきいきと輝き出したからである。  警部がその視線をたどっていくと、耕助の視つめているのは、あの凶器の入ったスーツ・ケースだ。 「金田一さん、金田一さん」  と、警部は呼吸をはずませて、 「あんた、何かこのスーツ・ケースに……?」 「警部さん、警部さん、わかりましたよ、わかりましたよ」  と、耕助はよろこびに声をふるわせて、 「ぼく、さっきこのスーツ・ケースには、何か詰め物がしてあったにちがいないといったでしょう。しかも、その詰め物がどこにもないって……ないはずですよ。そいつはチェックの男が着ていったんだから」 「着ていったあ?」 「そうです、そうです、そうです。チェックの男はあらかじめ、着替えを用意していたんですね。そして、犯行後、目印になるオーヴァや帽子はぬぎ捨てて、用意の着替えを着て逃げたんです」 「いつ?」 「おそらく都築貞子が殺された直後でしょう」 「しかし、しかし、金田一さん、それじゃ、武智マリを殺したのは……?」 「だから、警部さん、この事件は単独犯罪じゃないんです。幽霊男にゃ共犯者があったにちがいない」 「そして、そして……幽霊男はげんざいまだこのホテルに……?」  金田一耕助の眼をきっと見すえる警部の|脳《のう》|裡《り》に、そのとき、まざまざとうかびあがったのは、加納博士の面影である。     失恋の外科医 「警部さん、警部さん、あなたまだ都築貞子の殺された現場を、ごらんになっておりませんでしたね。これからすぐにいってみましょう。それから、さっきの話、みちみち聞かせてください」  安井警部補がこれからアリバイ調べをしようと、菊池陽介と建部健三、それから西村鮎子ほか二、三人をつれて、どやどやと部屋のなかへ入ってきたので、金田一耕助は等々力警部をひっぱり出した。  金田一耕助にはアリバイ調べなど興味がないのだ。これだけ、大勢ひとがいるのだもの。アリバイのない人物が、相当あったとしてもしかたがない。げんに、もっとも臭いとにらまれている、加納博士にもアリバイがないではないか。  庭へ出ると、猟奇クラブのメンバーと、モデルたちが三々五々、不安そうな散策をつづけている。みんな重っくるしく押しだまって、たまに話をするにもひそひそ声。  あいつづく殺人事件に、客もホテルの従業員も、恐怖と不安の重圧に押しつぶされているようだ。 「しかし、金田一さん」  と、ひとびとの群からはなれると、等々力警部が不審そうに質問する。 「幽霊男にはなぜ共犯者が必要だったんです。単独でやれる犯罪じゃありませんか」 「いや、ぼくもいま、それを考えているんですがね。幽霊男ははじめから、貞子を殺害するだけでは満足せず、それを解体して、われわれをあっといわせようという、野心があったんですね。それにはそれに使用する、凶器を用意しなければならない。さっきごらんになったように、メスだの|鋸《のこぎり》だの|鋏《はさみ》だのをね。ところがそんなものを持ちこんじゃ、あとでひとに怪しまれる。疑われますね。だから、あらかじめ共犯者に命じて、あのスーツ・ケースを持ちこませたんでしょう」 「それじゃ、共犯者は死体を解体するための、凶器を持ちこむためにだけ、働いたというわけですか」 「そう。……いまのところ、ぼくにもそこまでしかわかりませんが……」 「そして、その共犯者というのが、吸血画家の津村一彦ということになりますか。あいつが幽霊男と行動をともにしてるらしいことは、宮川美津子や、小林浩吉の言葉によっても明らかなんですがね」 「そう、そういうことになるのかもしれません。しかし、支配人やボーイの話によると、チェックの男は二十前後だったということだが……」 「そりゃ、変装すればなんとでもなりますよ。ただ、津村一彦なら、左の小指が一本かけているという、大きな目印があるんだが、支配人やボーイはそのことをいってませんでしたか」 「いや、それは誰も気がつかなかったようです」 「手袋でもはめて、かくしてたのかもしれませんね」  それから、しばらくふたりは黙々として歩いていたが、 「しかし、金田一さん」  と、等々力警部は思い出したように、 「幽霊男が加納博士なら、共犯者の必要はないわけですね。あのひとはひとりで、自動車をとばしてきたんだから、それに凶器をつんでくればいいんですからね」 「そうです、そうです。だから、警部さん、これはなかなかむずかしい問題ですね」  金田一耕助はほっと|溜《た》め息をついたが、 「ときに、警部さん、加納博士のことですが、話してください。あのひと、どういう性格の人物なんですか」 「ああ、あの男……あの男は気の毒だといえば気の毒な人物で、頭脳もよし、腕もあり、その点では周囲から尊敬されてるようですね。ただ、若いときから非常に激しい性格で、思いたったら、いかなる障害を乗りこえても決行する。……たとえ、少々道にはずれたことでもですね。そういう性格なもんだから、先輩や友人なんかも、ハラハラするようなことが多かったそうです。ところが、結婚してから、すっかりそういう危険性がなくなった。と、いうのが奥さんというのが、とても立派なひとで、うまく主人の|手《た》|綱《づな》をとってたんですね。ところが、四、五年まえにその奥さんが亡くなって、それ以来、また危くなってきた……」 「子供は……?」 「なかったんです。それもひとつの原因で、相当無茶な道楽……と、いうより|放《ほう》|蕩《とう》をはじめた。ところが、去年だったか一昨年だったか、一時、ぴったり放蕩をやめて、とても神妙にしてたことがあったそうです」 「と、いうのは……?」 「つまり、愛人ができたんですね」 「どういうひとですか、それ……?」 「ところが、誰もその愛人というのをしってるものがない。先生、ひたかくしにかくしてたんですね。そういうところから、人妻じゃなかったかといううわさもあります」  金田一耕助はどきっとする。 「|姦《かん》|通《つう》してたというわけですか」 「そうです、そうです。|惚《ほ》れたとなると人妻だろうが、なんだろうが、見境がつかなくなる性格らしいんですな」 「それで、愛人はいま……?」 「別れたか、それとも死なれたのか、とにかく失恋したらしく、それ以来、またいけなくなって、こういう猟奇クラブみたいな、ぐれん隊の隊長におさまって、馬鹿をつくしているんですね」  ちょうどそのとき、池のほとりへさしかかったので、ふたりはすぐボートに乗った。 「そうすると、男としては非常な危険な状態にあるわけですね」 「そうです、そうです。だから、こういう血なまぐさい犯罪を、絶対にやらんとはいえないわけです」  ボートが向こう岸へつくと、金田一耕助はまずあの花園へ警部を案内する。  花園には、まだ二本の脚が、あのグロテスクなポーズを作っており、刑事がふたり見張っていた。 「ふうむ、これは……?」  話には聞いていたものの、実際にそれを目撃すると、警部もうならずにはいられない。 「これは菊池陽介と武智マリが、いっしょに発見したんですね」 「そうです、そうです。それからこっちへきてください」  金田一耕助はそこから警部を、|沐浴《ゆ あ み》する女の現場へつれていった。そこにも刑事がふたり見張っており、都築貞子の上半身は、あいかわらず髪をくしけずっている。  警部はまた|唸《うな》った。 「ねえ、警部さん、さっきの鮎子の言葉によると、武智マリは貞子をさがしに出発する直前、コンパクトを使ったというんでしょう。そのコンパクトがこの池のなかに落ちていた。しかし、菊池とマリが、あの花園のグロテスクを発見したときには、ここを通らずにあっちの路を通ったんですね。と、すると、マリがここを通ったのは、菊池とわかれて凶事をホテルへ、|報《し》らせにくる途中だったにちがいない。そのときマリは、犯人に不利な何物かを見たにちがいないが、それはいったい、どういうことだったか……。いや、それよりもここを通ったとすれば、当然、あの死体の上半身が、眼についたにちがいないのに、どうしてそれを、われわれに言わなかったのか。……」  金田一耕助はまた、じりじりしてくるような眼つきをして、くやしそうに髪の毛をかきむしる。     人形工房  結局、こうして、百花園ホテルの二重殺人事件も、犯人がわからずじまいに終わった。  安井警部補はいとも熱心に、猟奇クラブの会員や、モデルたちの、アリバイ調べをやったが、それからもなんらうるところはなかった。  何しろ何十人という男女のことだ。アリバイの不完全な人物はいくらでもある。それらの人物を、かたっぱしから、ふんづかまえるわけにはいかなかった。  ホテルから消えたチェックの男のゆくえも厳重に追究されたが、これまた|杳《よう》としてゆくえがわからない。  金田一耕助がいうように、チェックの男が逃げだしたのが、午前十一時前後とすると、捜査を開始するまで、四時間もあいだがあったのだから、その時分にはもう東京の|雑《ざっ》|沓《とう》のなかへ、まぎれこんでいたかもしれない。しかも、これまた耕助が指摘するごとく、そいつが着換えを用意していたとすれば、どんな服装で逃げたのかわからないのだから、捜査するにも方針が立たなかったわけである。  こうして、幽霊男はまたしても、捜査陣の指のあいだから、巧妙にすべり落ちていったが、それから半月ほどのちのこと、ここにまた、ちょっと妙なことが起こった。  浅草の|馬《うま》|道《みち》の裏通りに、 「昭和人形工房」  と、古びた看板をあげた家がある。  |埃《ほこり》まみれの飾り窓をのぞくと、男の首だの女の首だの、バラバラになった手や足が、埃をかぶってごろごろ転がっている。むろん、みんな人形だが、人間とおなじ寸法をしているから気味が悪い。  女の子など、この飾り窓のまえを通るときには、小走りに走りすぎるくらいである。  この昭和人形工房の|親《おや》|爺《じ》というのは、|河《こう》|野《の》十吉といって、見世物などに使う、生き人形つくりの名人である。夏場などによく催される、お化け大会の、血みどろな生き人形をつくらせると、この十吉の右に出るものはない。だから近所の娘子供などは、あから顔で、大男で、|海《うみ》|坊《ぼう》|主《ず》のような感じのする十吉を、お化けか幽霊の親分みたいに怖がるのだ。  十吉は見世物に使う人物のほか、呉服屋の飾り窓に使う人形なども頼まれる。ちかごろは昔ふうな生き人形のほかに、西洋ふうの|蝋人形《ろうにんぎょう》にも手を出して、そのほうでもなかなかの名人だが、なにしろ、名人|気質《か た ぎ》の人間が変屈ときて、なかなか仕事をしないから、うちのなかはいつも火の車で、細君のお|篠《しの》というのがこぼしている。  さて。  それはまえにもいったとおり、百花園ホテルで惨劇が演じられてから半月ほどのち、即ち四月十日のことである。  この昭和人形工房の、たてつけの悪いガラス戸を、ガタピシ開いて入ってきたひとりの男がある。  そこらじゅう、人形の首だの手脚だのが、ゴロゴロしている薄暗い仕事場にあぐらをかいて、珍しく熱心に仕事をしていた十吉が、ひょいとふりかえると、入ってきたのは顔中に|繃《ほう》|帯《たい》をした男だ。  さすが度胸のいい十吉もぎょっとした。 「ふうむ、これは……」  繃帯の男のほうでも、仕事場にぶらさがっている、気味のわるい人形を見ると、思わず|唸《うな》って、上がりかまちのまえに立ちすくむ。  むりもない。そこにあるのはみんな、お化け大会に使う人形ばかりで、さんばら髪の女や、|斬《き》られた坊主や、ろくろ首や、三つ目小僧や、ひとつとして満足な人形はない。 「|旦《だん》|那《な》、何か御用ですかい」  薄暗いところから声をかけられて、繃帯の男はまたぎょっとしたように|瞳《ひとみ》をすえたが、 「ああ、君、そこにいたのか。気がつかなかった」 「旦那、何か御用ですかい」  十吉がまた無愛想な声で|訊《たず》ねる。 「ふむ、君が人形つくりの名人、河野十吉君かね」 「名人だかどうだか知らねえが、河野十吉はあっしですよ。旦那、何か御用ですかい」  あいかわらず無愛想な声で、河野十吉はおなじことを訊ねる。腰をかけろともいわない。 「ああ、ちょっと君に頼みたいことがあるんだ。人形をつくってもらいたいんだがね」 「あっしゃいま忙しいんだが……生き人形ですかい、蝋人形ですかい」 「ふむ、蝋人形だがね。ちょっと注文があるんだ」 「注文ってどんな注文だね」 「手足の関節にゴムかバネを使ってね、自由にまがるようにしてもらいたいんだ」  十吉は繃帯のおくからのぞいている、相手の瞳をのぞきこんだ。 「旦那、そんなものを作ってどうなさるんです」 「なあに、抱いて寝るのさ」 「えっ?」 「あっはっは、いや、これは冗談だがね。ちょっと必要があって、そういう人形がほしいんだ」  十吉はしばらく黙って考えていたが、だしぬけに、 「旦那、その顔は、どうなすったんです」  と、訊ねた。 「ああ、この顔か。これはね。女に|硫酸《りゅうさん》をぶっかけられたんだよ」 「旦那、そ、それはほんとうですか」  十吉の声が急にはずんだ。 「旦那、もし、それがほんとうなら、あっしに顔を見せて下さいよ。あっし、そういうむごたらしいのを見るのが大好きで……」  さすがに繃帯の男もどきっとしたように、十吉の顔を見かえしていたが、 「あっはっは……」  |咽喉《のど》のおくで気味のわるい笑い声をあげると、 「まあ、|止《よ》そう。おれの顔は見世物じゃないからね。それより、親方、人形つくっておくれよ。後生だから。……おれ、ここに詳しく寸法を書いてきた。身長から手脚の釣り合い、|胴《どう》|廻《まわ》りから腰のふとさ……それから顔は、この写真のとおり作ってもらいたいんだが……」  繃帯の男がとりだしたのは、一糸まとわぬ裸の女の写真である。十吉はギロリと相手の男を見て、 「旦那、この女ですかい。旦那の顔に硫酸をぶっかけたというのは……?」 「ああ、そうだよ」 「憎いんでしょうねえ」 「いや、|可愛《か わ い》いんだ。可愛くて、可愛くてたまらないんだ」  十吉はまたギロリと相手の顔を見て、 「あっはっは、ようがす。作りましょう」 「有難い! 頼む、おれのいったとおりにだよ、手脚が自由に動いて、そのとおりの顔立ちで、そのとおりの手脚の寸法で……」 「旦那、くどうがすよ」 「ああ、そうか。それはすまなかった」 「その代わり、高うがすよ」 「いくらだい」 「五万円」 「五万円……?」 「いいじゃありませんか。それっぽちで、|惚《ほ》れた女の身代わりが抱いて寝られりゃ……」 「あっはっは。そういえばそうだ。それで出来上がるのはいつだい」 「きょうは四月の十日ですね。じゃ、今月の二十五日までに作りましょう。旦那、おところとお名前は……?」 「それは勘弁してくれ。女に硫酸ぶっかけられた男だからね。二十五日にこちらから|貰《もら》いに来よう。おれがくるか、使いのものが来るか。それでどうだ」 「ようがす。そのほうが手間が省けていいや」 「じゃ、ここに手付けとして半金だけおいとこう。あとの半金は現物とひきかえに渡す。それでいいだろ」 「結構です。旦那、きっと十分満足がいくようなのをこさえときますから、楽しみにしていらっしゃい」 「なにぶん、よろしく頼む」  不思議な客は、不思議な注文をしてかえっていった。いったい、かれは手脚の関節の、自由に動く人形をつくって、何に使うつもりだろうか。     情報入る  さて、それから十五日たった四月二十五日、すなわち、河野十吉と繃帯の男のあいだに結ばれた、約束の夕方のことである。  等々力警部が担当する、警視庁の捜査一課第五調べ室へ、ふらりと入ってきたのは金田一耕助。例によって、よれよれの着物に、よれよれの|袴《はかま》をはいて|飄々《ひょうひょう》としている。 「やあ、警部さん、どうです。その後幽霊男の件について、何か情報が入りましたか」 「いや、こっちは一向。金田一さん、あんたのほうは……?」 「いや、こっちも根っから。……何しろあれっきり、鳴りをしずめているんだからしまつにおえない。と、いって、むやみに血みどろ遊びをやられても困るが、なにかこう、ちょっかいを出してくれんことには……」 「そうそう、最初、共栄美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》へ現われたり、|聚《じゅ》|楽《らく》ホテルで部屋を予約したり。……そういうことをやってくれると、こっちも手がかりが出来るんだが……」  と、等々力警部のその言葉もおわらぬうちに、卓上電話のベルがけたたましく鳴り出した。  警部は何気なく受話器をとって、ふたこと三こと聞いていたが、急に大きく|眉《まゆ》をつりあげると、 「なに、幽霊男のことについて、何か話があるって……よし、すぐにこちらへつれて来い……」  ガチャンと受話器をおいて、金田一耕助のほうへ振りかえった警部の瞳には、興奮の色がみなぎっている。 「金田一さん。うわさをすれば影とやらで、幽霊男の情報を、持ってきてくれたやつがあるらしい」 「男ですか、女ですか」 「女だというんだがね。おい、君たち、準備をしといてくれたまえ。話の模様によっては、すぐにも、出動しなければならんかもしれんから」 「はっ!」  第五調べ室全体が、さっと緊張しているところへ、おどおどと入ってきたのは、下町のおかみさんらしい、四十五、六の女である。縮れた髪を束髪に結って、粗末な|銘《めい》|仙《せん》の着物を着ている。 「やあ、おかみさん、いらっしゃい。さあ、そこへお掛け」 「はい、あの、失礼ですが……」  と、女は落ち着かぬ|恰《かっ》|好《こう》で、おずおずと|椅《い》|子《す》に腰をおろすと、 「あなたが幽霊男のことを受け持っていらっしゃる、警部さんでございますか」 「ああ、そうだ。おかみさん、名前は?」 「は、はい、河野篠と申します」  ああ、この女は河野十吉の細君だった。 「それで御商売は……? いや、あんたの御商売でなくてもいい。御主人は……?」 「はい、主人は人形作りでございます。河野十吉と申しまして。生き人形作りの、まあ、名人でございます」 「生き人形というと、見世物やなにかに使う……?」  金田一耕助も|俄《にわ》かに興を催したように体を乗り出す。 「はあはあ、さようで、ちかごろは生き人形のほかに、|蝋人形《ろうにんぎょう》もつくりますんです。ところがせんだって、妙なお客さんがまいりまして……顔中|繃《ほう》|帯《たい》をした男なんでございますが……」 「なに、顔中繃帯をした男……?」  警部ははっと部下と顔見合わせる。宮川美津子が襲われたとき、幽霊男は顔中、繃帯をしていたというではないか。 「それで、その男、どんな用件で……?」 「それが、まことに気味の悪い注文なんでして……」  と、お篠が隣の部屋で聞いていた、十吉と繃帯の男の一問一答を話すと、警部をはじめ一同はいよいよ体を乗り出した。 「おかみさん、約束の二十五日といえばきょうだが、それで御亭主は注文通り人形をつくったのかい」 「はい、作りましたんで。わたしは気味がわるいもんですから、何度も止めたんでございますが、何しろ、わたしの言葉など、取りあげる主人ではございませんので……」 「それで、その人形、まだお宅にあるの」 「いえ、あの、それが……さきほど使いのものが取りにまいりましたので、渡してしまったんでございます」 「なに、わたしたあ?」  警部の一喝にお篠ははっと首をちぢめる。 「いや、御免、御免、しかし、おかみ、おなじ|報《し》らせてくれるんなら、なぜ渡すまえに報らせてくれなかったんだ」 「いえ、あの、警部さん。主人は新聞を読まないんで知らないんですが、わたし、新聞を読んでおりまして、幽霊男が顔中、繃帯をしてたことがあるということを知ってましたんです。それで……」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「それで、いっそう主人を止めたんですが、主人はどうしてもききいれません。よっぽど、交番へいってこようかと思ったんですが、もし相手が幽霊男でなかったら……とも考えて、いろいろ迷ったんでございますよ。それで、きょうじつは、人形を受け取りにきた、使いのものをこっそりつけて、むこうの家をつきとめてきたんでございますよ」 「おかみさん! そ、それをなぜ早くいわないんだ!」  等々力警部はさっと椅子を立つ。金田一耕助も部下の刑事も、ほとんど同時に立ちあがっていた。 「あっ、警部さん、ちょっとお待ちください。もちろん、そこへ御案内申し上げますが、うちの主人、何も罪には……?」 「ああ、おかみさん、それは大丈夫だ。繃帯の男がほんとうに幽霊男だとしても、あんたの主人はただ注文をうけて、人形を作っただけのことなんだから……」 「有難うございます。わたし、それが心配で、心配で……ああ、そうそう、忘れてました。|旦《だん》|那《な》、これが注文の写真なんでございます」  お篠がふところから出した写真を見て、等々力警部や金田一耕助をはじめとして、そこにいる刑事たちまで、思わずぎょっと呼吸をのんだ。  ああ、なんと、それは西村鮎子のヌード写真ではないか。    第五章 人形の生毛 「ああ、警部さん、警部さん、あの家でございます。ほら、あの洋館……」  疾走する自動車のなかから、向こうをのぞいてお篠が、一軒の洋館を指さしたのは、それから二十分のちのこと。 「よし、ストップ!」  警部の命令で自動車がとまったのは、|隅《すみ》|田《だ》川をすぐそばにひかえた|今《いま》|戸《ど》のほとり。川沿いにずらりと建ちならんだ家のなかに、門構えのちょっと立派な洋館がある。 「おかみさん、あの家にまちがいないね」 「はい、まちがいはございません」 「よし、それじゃ、おまえさんはこれでかえってもいい。また、出頭してもらうことがあるかもしれないが……」 「はい、それはよろしゅうございますが、主人のことはくれぐれも……」 「ああ、それは大丈夫だ」  お篠がかえっていくと一同は、目立たぬように、ばらばらになって洋館にちかづいていく。金田一耕助は警部とつれだった。  洋館の門はぴったりしまって、|大《おお》|谷《や》|石《いし》の門柱には表札もかかっていなかった。通りがかりになかをのぞくと、二階も階下もぴったりと窓がしまっている。母屋の横のほうに車庫らしい建物がある。 「警部さん、警部さん、いつか宮川美津子と小林浩吉がつれこまれたのは、この家じゃありませんか」 「ふむ、わたしもいまそれを考えていたところだが……」  ふたりはそのままいきすぎて、一町ほどいって立ちどまる。あたりはもうそろそろ|黄昏《た そ が》れかけて、あたりには人通りも少なかった。  ふたりがまた引きかえそうとするところへ、ぶらぶらと私服がそばへよってきた。 「いま、近所で聞いてきたんですが、あの家にはげんざい誰も住んではおらんそうです。しかし空家かというとそうでもなく、ときどき男がやってきて、何をしているのか、二、三時間……ときにはひと晩、過ごしていくこともあるそうです」 「どんな男だね」 「ところがそれが妙なんで。誰もその男の顔をはっきり見たものがないんです。と、いうのは、そいついつも帽子や襟巻きで顔をかくすようにしているうえに、表からはやって来ないんですね」 「表から来んとすると、どこから……?」 「あの家の裏側はすぐ隅田川になってるんですが、そこをモーター・ボートでやってくるというんです」 「ふうむ」  等々力警部は眼を視張って、 「それで、やってくるのは男だけかね。ほかに誰も……」 「最近はその男だけだそうです。以前はちょくちょく、女が来てたそうですが……」 「どんな女……?」 「それがまたわからないんで。この女は表のほうから自動車で来てたそうですが、いつも濃いヴェールで顔をかくしてたといいます。それで、近所では道ならぬ恋のふたりが、|逢《あい》|引《び》きしているんじゃないかといってたそうです」  金田一耕助と等々力警部は、思わずはっと顔を見合わせる。  それではその男というのは、人妻と恋におちていたらしいという、加納博士ではあるまいか。 「それで、何かね、きょう人形らしいものを運びこんだ形跡は……?」 「はあ、きょうの三時ごろ、小型トラックがついて、まるで|寝《ね》|棺《かん》みたいなものをはこびこんだというんで、そうでなくとも、びくびくもんの近所では、すっかり気味悪がっているんです」 「よし、そこまでわかれば捨ててはおけない。構うことはない。踏みこもう」  門のまえまで引きかえすと、警部の合図で、すぐに刑事のひとりが門を乗りこえた。門の扉には|閂《かんぬき》がはまっているだけで、錠はおりていなかった。刑事がその扉をひらくのを待って、一同はどやどやとなかへ踏みこむ。  もうあたりはすっかり暗くなっているので、一同はてんでに懐中|電《でん》|燈《とう》を持っている。  玄関にはドアがぴったりしまっていて、これは|鍵《かぎ》がかかっているのか、押しても引いても開かない。 「おい、どこか、潜りこめるようなところはないかさがして来い」 「はっ」  刑事のひとりが走り去るのと入れちがいに、べつの刑事がやってきた。 「警部さん、警部さん、ちょっとこっちへ来てみてください。面白いもんがありますよ」 「なんだ、なんだ、何があるんだ」  警部と金田一耕助が刑事のあとについていったのは、自動車のギャレージに付属している、平屋建ての小さな建物。 「警部さん、ほら、あれ!」  窓の外から、刑事がむけた懐中電燈の光のさきを見て、金田一耕助と等々力警部は、思わず、ぎょっと呼吸をのむ。  粗末なデスクのうえにあるガラスの容器、そのガラス箱のなかに、うじゃうじゃとうごめいているのは、まぎれもなく|蜘《く》|蛛《も》ではないか。 「畜生! それじゃ、ここがやっぱり幽霊男の本拠なんだな」  そこへ、さっきの刑事が小走りにかえってきた。 「警部さん、警部さん、窓をひとつこじあけましたが……」 「よし」  刑事のこじあけた窓からなかへ踏みこむと、なかはホールになっていて、すぐ横に階段がついている。 「宮川美津子の|覚《かく》|醒《せい》したのは、二階らしかったといっていた。ひとつこれを登ってみよう」  真っ暗な階段を、懐中電燈で照らしながらのぼっていくと、とっつきに観音びらきのドアがある。それをひらいて部屋のなかへ、懐中電燈の光をむけた等々力警部は、 「あっ、あそこに人形がある。しかも、|虎《とら》の毛皮のうえに……」  見ればなるほど、床にしいた虎の毛皮の頭を抱くようにして、白い裸身がうつぶせに寝かされている。  金田一耕助は壁ぎわをさぐってスウィッチを入れる。  と、ぱっと明るくなった部屋のなかには、いつか宮川美津子が話したとおり、鏡つきの化粧ダンスに鳩時計、隅のほうにはガス・ストーヴもおいてある。 「警部さん、いよいよこの部屋にちがいありませんね」 「ふむ、しかし、幽霊男はどこへいったのかな。こんなところへ人形をおっぽり出して。……」  部屋の隅には、寝棺のような白木の箱をおっぽり出してある。  金田一耕助はまじまじと、虎の毛皮のうえに寝そべっている、白い裸身を視つめていたが、だしぬけに、砕けんばかりに警部の腕を握りしめた。 「ど、どうしたんです。金田一さん、何か……」 「け、け、警部さん、あ、あの人形には|生《うぶ》|毛《げ》がはえている……」 「えっ、生毛が……?」  等々力警部もぎょっと人形の背後に眼をやったが、ああ、間違いはない。虎の頭を抱いた女の腕には、こまかい生毛がはえている。  警部は大きく呼吸をすい、つかつかと人形のそばへちかよると、そっと顔を起こしてみたが、 「ち、ち、畜生! こ、こ、こりゃ人形じゃない。モデルの宮川美津子だ!」  その宮川美津子の|頸動脈《けいどうみゃく》は、まるで|噛《か》みさかれたように破られていて、全身の血の気をうしなっていた。  警部と金田一耕助は、|茫《ぼう》|然《ぜん》として顔を見合わせていたが、そのとき、隅田川のほうから、けたたましいエンジンの音がちかづいてきて、ぴたりとこの家の裏手にとまった。 「警部さん来た!」  金田一耕助は素速く電気を消して、|暗《くら》|闇《やみ》のなかにうずくまる。     不思議な侵入者  階下には私服の刑事や警官が、五、六名張っているはずである。かれらもこのエンジンの音を聞いたにちがいない。なにごとかがおこるであろうか。……  金田一耕助と等々力警部は、暗がりのなかで呼吸をのみ、全身の神経を耳にあつめて、階下の気配をうかがっている。しかし、なにごともおこる模様はなく、しばらくして、どこかで静かにドアのしまる音がして、やがて、誰かが階段を、しのびやかな足どりであがってくる。  警官たちはわざと、この不思議な訪問者を見送ったらしい。金田一耕助と等々力警部は、暗がりのなかでさっと緊張する。  コツ……コツ……コツ……  酔っ払いの千鳥足のように、力なくよろめく靴音。おそらく、暗がりのなかで片手を壁につきながら、あがってくるのであろう。|喘《あえ》ぐような息使いがちかづいてきて、やがて靴音はドアのまえでぴたりととまった。  ガチャリとドアの|把手《ハンドル》をまわす音。やがて、しめきった部屋の空気がかすかにうごいて、ドアが外から開かれる。  不思議な侵入者は、よろめくような足どりで、部屋のなかへ入ってくると、ぴったりドアをしめ、暗がりのなかで鍵をかけている。  よほど用心しているらしい相手の態度に、金田一耕助は、暗がりのなかで、ドキドキ胸を躍らせている。等々力警部は汗ばんだ手で、きっとピストルを握りしめた。  ふたりとも、ドアの左右の壁の隅に、ぴったりと背中をくっつけているのだ。  やがて、スウィッチをひねる音がして、ぱっと室内の電気がつく。明るみのなかに浮きあがったのは、ソフトをまぶかにかぶり、防水したレーン・コートの襟を、ふかぶかと立てた男である。したがって、顔ははっきり見えなかったが、からだ全体の印象から、金田一耕助や等々力警部には、すぐそれが誰であるかわかった。  しかし、相手はふたりがそこにいることに気がつかない。電気がついたとたん、網膜のなかにとびこんできた、白い女の裸身を見て、大きく|眉《まゆ》をつりあげた。 「おお!」  と、よろめき、呼吸をはずませ、ぴったりドアに背中をくっつけた男の顔には、おどろきともよろこびともつかぬ複雑な表情が一瞬うごいた。  うつぶせに寝た白い裸身を、眼じろぎもせず視つめながら、 「マダムなの……? ねえ、そこにいるのはマダムなの……?」  ささやくようにたずねる声には、やさしい愛情が|溢《あふ》れている。 「マダムは三ぶにあいにきてくれたの? また三ぶを愛してくれるの? ねえ、そうなんだろ? 三ぶは……三ぶはうれしい」  まえかがみになって、一歩一歩、女のそばへちかよっていく男の体は、情熱のかたまりみたいである。たぎりたつ愛情に、全身がわなわなとふるえている。 「マダム……マダム……顔を見せておくれ。マダムに捨てられて、三ぶはどんなに|淋《さび》しかったか……」  押えきれぬ感動に、男の声は涙ぐんでふるえている。  うつくしい、虎の毛皮の|斑《ふ》のうえにひざまずくと、男はまるで、尊い宝玉にでもふれるように、そっと女の肩に手をおいたが、そのとたん、毛虫にでもさされたように、ぴくりと体をふるわせると、あわててその手をひっこめた。  それから、|嵐《あらし》のようなはげしい息使いをきかせながら、白い裸身を視つめていたが、やがておののく腕をのばして、寝ている女の脈をとり、また、大きく呼吸をはずませると、あわてて女を抱き起こした。  だが……。  ひとめ女の顔を見ると、 「ちがう!」  と、鋭く叫んで女の体をつきはなしたが、その声には、|安《あん》|堵《ど》とも、失望とも、おどろきとも、怒りともつかぬ強烈なひびきがこもっている。  金田一耕助と等々力警部は、部屋の隅と隅から眼を見かわすと、一歩、男の背後へふみ出した。 「なにがちがうんですか。加納先生!」     マダムX  不思議な侵入者——即ち医学博士の加納三作にとって、その声はおそらく、青天の|霹《へき》|靂《れき》ともいうべきひびきをおびていたのだろう。  ぎくっと、跳びあがって、ふりかえったその顔には、はげしい怒りと憎しみがもえあがっている。 「き、君たち!……」  と、ギリギリと、歯をかみならすような音をさせながら、 「誰が……誰がこんなことをしたんだ!」 「それをこちらから先生に、おたずねしたいんですがね」  等々力警部の声は氷のようにひややかである。 「お、おれに……?」 「そうです。ここは先生のおうちなんでしょう。先生のかくれ家なんですね。ところがそこに死んでいる宮川美津子は、まえにもいちど、ここへつれてこられたことがあるんですよ。幽霊男にね。虎の毛皮……夜光塗料をぬった鳩時計……鏡つきの洋ダンス……この部屋とそっくりおなじですね。そういう部屋へ宮川美津子は、いつか幽霊男につれてこられたことがあるんです。そして、宮川美津子はいまそこに殺されている。先生、それについて、なにか御説明ねがえませんか」  等々力警部は加納博士のほうへ一歩踏み出す。博士は血走った眼をギラギラ光らせながら、それでも、|気《け》|圧《お》されたようにうしろへたじろぐ。怒りのために、額の血管が二本おそろしくふくれあがっていた。 「おれは知らん、なにも知らん!」 「あっはっは!」  等々力警部はのどのおくでひくく笑って、 「先生がどんなに抗弁なすっても、ここが幽霊男のかくれ家であることには、もうまちがいはないんですよ。ギャレージのそばの小屋のなかには蜘蛛を飼う容器がありますね。宮川美津子がここへつれこまれたおなじ晩、小林恵子の弟の浩吉は、運転手の小屋で、吸血画家の津村一彦が、蜘蛛とたわむれているのを見たんです。したがって、ここが幽霊男のかくれ家であることは、もうまちがいはありません。しかも、同時にここは先生のかくれ家でもある。先生、それについて、なにか御説明ねがえるでしょうね。津村一彦はいまどこにいるんです!」  等々力警部の声は、ぴしりと|鞭《むち》をうつように鋭かった。  加納博士の面上からは、まだ怒りの色が消えなかったが、しかし、しだいに当惑と、混乱と不安の色がくわわってくる。 「おれは……おれはなんにもしらん。そ、そんなことがあったとしたら、誰かがおれをおとし入れようとして……」 「先生、そんな子供だましを!」  警部が鋭くきめつけたとき、 「まあ、まあ、警部さん」  と、ふたりのあいだにわって入ったのは金田一耕助。 「警部さんのように、そうガミガミおっしゃっちゃ、先生も返事にお困りでしょう。先生、加納先生」  と、耕助は博士のほうへむきなおって、 「先生におたずねしたいんですがね。先生は以前ここで、どなたか御婦人と、密会していられたんでしょう」  加納博士はぎっくりとした眼を、金田一耕助のほうへふりむける。否定も肯定もしなかったが、耕助の言葉を肯定していることだけはたしかである。 「それは、どこの、どういう御婦人なんですか」  加納博士はゆっくり首を左右にふる。なんだかひどく悲しそうだ。婦人の話が出ると、額に怒張していた血管もおさまって、態度も急におとなしくなる。 「先生、首を横におふりになるのは……?」 「知らないんだ。おれは……あのひとが、どこのどういうひとだか……」  言葉もきれぎれに、まるで|嗚《お》|咽《えつ》するような調子である。 「御存じない?」  金田一耕助はあきれたように、まじまじと相手の顔を見なおした。 「ああ、知らないんだ、金田一君、これはほんとうのことなんだ。あのひとはどうしても、いってくれなかったんだ。名前はおろか、身分もうちあけてくれなかったんだ」 「しかし、先生は……いや、おふたりは愛しあっていらしたんでしょう」 「ああ、おれは愛してた。いや、いまでも愛しつづけているんだ。死ぬほど|惚《ほ》れてるんだ。あのひとも、おれを愛してくれてると思っていた、それだのに……それだのに……」  加納博士は熱い呼吸をのみくだす。 「それだのに……どうなすったんですか」 「ある日、ここへおき手紙をして……おたがいのためにならないから、二度とあうまいというおき手紙をして、それきり姿を見せなくなったんだ。おれは気がちがいそうだった。あのひとが恋しくて、恋しくて、狂い死にをしそうだった。おれはいまでもあのひとが、ひょっとするとここへまた、来てくれるのではないかと思って、ときどきこうしてやってくるんだ。金田一君、君、知ってるんなら教えてくれ。聞かせてくれ。あのひとはいったい、どこのどういうひとなんだ。いや、あのひとは今どこにいるんだ!」  しっとりと涙にぬれた博士の眼を、金田一耕助はあきれたように見返しながら、 「しかし、先生、あなたは名前も知らぬそのひとを、いったい、なんと呼んでいらしたんですか」 「マダムと呼んでた。ただ、マダムと。……マダムXとおぼえていてくれというんだ。そのひとが……」 「いくつぐらいのかたですか」 「三十前後……いや、まだ三十前かもしれん。女の|年齢《とし》はよくわからんが……」 「きれいなかたなんでしょうねえ」 「もちろん」  と、言下にいいきって、博士はハラハラと涙を落とした。 「それに、とってもやさしい女なんだ。おれが|癇癪《かんしゃく》持ちで、意地っ張りで、|喧《けん》|嘩《か》っぱやいことを知っていて、いつも心配してくれてたんだ。やさしくなだめてくれたんだ。ああ、マダム! マダム! おまえはいったいどこにいるんだ」  博士は絶叫したい衝動をおさえるように、ひくく、鋭くうめいて、両手をひしと顔におしあてる。涙が指のあいだから|溢《あふ》れて、床のうえにしたたり落ちる。肩が大きく波うって、嗚咽の声が断続する。  金田一耕助と等々力警部は、思わず顔を見合わせた。  この高名な外科医が女をしたって、子供のように声をあげて泣くさまは、たしかにひとつの奇観である。  金田一耕助はしばらく、あきれたように相手の様子を視まもっていたが、だしぬけに、五本の指で、|雀《すずめ》の巣のようなもじゃもじゃ頭を、めったやたらと|掻《か》きまわしはじめた。これが|嬉《うれ》しいときとか、興奮したときのこの男のくせなのである。  等々力警部はしかし、そんなことで、ごま化されはしないぞといわぬばかりに、ひややかな眼で相手の顔を視まもりながら、 「先生、|鍵《かぎ》をわたしてください」  と、つめたい声で請求する。 「なに、鍵を……?」  博士はぎょっと虚をつかれたように、涙にぬれた顔から手をはなす。それからいそいで、ハンケチで、涙をふいた。さすがに極まり悪そうである。 「ええ、そう、そこのドアの鍵……先生はいまそのドアに鍵をおろしたでしょう。われわれは外に待機している連中を呼びいれて、死体のしまつをしなければなりません。とにかく鍵をわたしてください」 「ふむ、ああ、それは当然の処置だが、……しかし、等々力君、君はまさかこのぼくがお美津を……」 「いや、それはここで言明すべきことではありません。しかし、先生にはぜひとも、本庁まで同行していただかねば……」 「等々力君!」  加納博士の額には、また二本の血管が、ニューッとぶきみに、まるで鬼のようにふくれあがる。危険な色がさっと|双《そう》|眸《ぼう》にもえあがった。 「いいです、いいです。とにかく鍵をいただきましょう」  博士はなにか、はげしい|罵《ば》|声《せい》を相手にあびせかけそうな気勢をしめしたが、やっと思いとどまったらしく、肩をすくめて、ポケットへ手をやった。  だが、そのときなのだ。  思いがけなく、部屋の一隅から、鋭い女の声が聞こえてきたのは……。 「三ぶ! その鍵をわたしちゃいけません!」     河上の逃走  犯罪研究者としての金田一耕助の、ながい冒険的な経歴のなかでも、このときほど、どぎもを抜かれたことはない。一瞬かれは、宮川美津子が息を吹きかえして、声をかけたのではないかと、錯覚をおこしたくらいだ。  しかし、じっさいはそうではなかった。  この部屋の壁の一部に黒いカーテンがかかっていることは、さっきから金田一耕助も気がついていた。しかし、そのカーテンのうしろにかくしドアがあり、かくしドアの外にかくし階段のあることは、いままで夢にもしらなかった。  一同がぎょっとしてふりかえったとき、開かれたかくしドアのむこうがわに、女がひとり立っていた。しかも、小型のピストルをきっと身がまえて……。  |喪《も》|服《ふく》のように真っ黒な服を着た女だ。顔も黒い、あついヴェールでつつんでいる。ヴェールのおくから、星のようなふたつの|瞳《ひとみ》が、きらきらかがやいているのがうかがわれた。 「おお、マダム!」  加納博士の顔が、ぱっとよろこびにもえあがる。 「マダムはここにいたの。マダムはとうとう、おれに|逢《あ》いにきてくれたんだね」  子供のように叫びながら、両手をひろげてそのほうへ、駆けよろうとする加納博士を、等々力警部が片手で抱きとめた。 「畜生!」  と、警部がどなって、腰のピストルへ手をやろうとしたとたん、ズドンと音をたてて、婦人用のピストルが火をふいた。 「駄目!」  と、女は鋭い声で、 「そのひとから手をはなしなさい。いまのはおどかしだったけれど、こんどはほんとに撃ちますよ。三ぶ、あなたはこちらへいらっしゃい」  女の語気には、ほんとに撃ちかねまじき|気《き》|魄《はく》がこもっている。  等々力警部は怒りにみちた|唸《うな》り声をあげながら、それでもしかたなく、加納博士をとらえた手をはなす。 「おお、マダム! マダム!」  矢のように女のそばへ駆けよって、両手をひろげて抱きつこうとする加納博士を、 「駄目よ、三ぶ、そんなに興奮しちゃ……落ち着いていらっしゃいね」  と、女はやさしくたしなめて、 「あのひとたちはあなたをつかまえて、しばり首にしようとしてるんですからね。あたしはもう決して、三ぶのそばをはなれないから、安心して、……」  女は愛情にみちた声で、加納博士をなだめながら、いっぽう油断なく、等々力警部と金田一耕助のほうへピストルをむけて、 「念のために申し上げておきますけれど、三ぶは子供のようなひとです。子供のように正直なひとです。それだけに感情を抑圧することが出来ないんです。あなたがたに捕えられて、いろいろしつこく|訊《き》かれたら、このひと、|激《げき》|昂《こう》して、きっと変なふうになってしまいます。このひとの身のうえから危険が去るまで、あたしがあずかっていきます。さあ、三ぶ、いきましょう」  女は早口にそれだけしゃべると、バタンと外からドアをしめ、つづいてガチャリと鍵をまわす音。 「おお、マダム、マダム!」  感きわまったような加納博士のつぶやきとともに、階段をかけおりていくふたりの靴音が、足ばやに遠ざかっていく。 「畜生! 畜生! あの女め!」  等々力警部はからだごとドアにぶつかり、|拳《こぶし》をかためてくやしそうに乱打するが、もうドアはびくともしない。  金田一耕助は|茫《ぼう》|然《ぜん》たる眼で、この一瞬の寸劇のあとを視まもっていたが、そのとき、うしろのドアの外にどやどやと、入り乱れた足音がちかづいてきて、 「警部さん、警部さん、どうかしたんですか。いまの音はどうしたんです」 「ピストルの音じゃなかったんですか」  くちぐちに叫びながら、ドンドン外からドアを|叩《たた》く、刑事や警官たちの声を聞いて、 「しまった!」  と、叫んだ金田一耕助、宮川美津子の死体をとびこえ、そのほうへとんでいくと、 「みんなそこにいるんですか。誰か下で見張ってるんですか」  と、早口に訊く。 「いえ、あの、みんなここにおりますよ。ピストルの音をきいて駆けつけてきたんです。金田一さん、さっき忍んできた男が、どうかしたんですか」 「いけない! いけない!」  金田一耕助は|地《じ》|団《だん》|駄《だ》を踏まんばかりの口ぶりで、 「誰かしたへおりていって……あのモーター・ボートを見張ってください」  だが、その言葉もおわらぬうちに、裏の|河《か》|岸《し》ぶちから聞こえてきたのは、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、というモーター・ボートのエンジンの音。  さっきマダムXがピストルをぶっぱなしたのは、かならずしも、おどかしのためばかりではなかったのだ。|階下《した》で見張っている警官や刑事たちを、|階上《うえ》へおびきよせるための手段でもあったのだ。  ドアの外の刑事や警官たちも、エンジンの音を耳にすると、はっとそれに気がついたらしく、 「しまった!」  と、叫んで顔見合わせる。 「早くいけ! だが、気をつけろ! 相手はピストルを持ってるぞ!」  等々力警部の命令に、 「はっ!」  と、こたえた一同が、|揉《も》みあうように階段を駆けおり、裏木戸から外へとびだしたときには、モーター・ボートはすでに河岸をはなれて、十数メートルほど下流を走っていた。  ハンドルを握っているのはいうまでもなく加納博士。そして、その背後に背中をまるくしてうずくまっているのは、黒衣のマダムXである。 「とめろ! とめろ! モーター・ボートをとめろ! とまらぬとうつぞ!」  しかし、モーター・ボートは白い|水脈《みお》をうしろにひいて、まっしぐらに|闇《やみ》の|隅《すみ》|田《だ》川を、下流にむかって|驀《ばく》|進《しん》していく。  警官たちがあわを食って、ドンドン、ピストルをぶっぱなしはじめたときには、モーター・ボートはすでに遠く、着弾距離の外へ出ていた。  それから間もなく、ドアをやぶってとびだしてきた等々力警部の命令で、隅田川の大捜索が行なわれたが、むろん、そのころにはもうすでに、加納博士もマダムXも、河上のどこにも発見されなかった。  それにしても、マダムXと名乗る黒衣の女は何者なのか。  ここにまた、新しい疑問の人物を加えて、幽霊男の事件はいよいよますます、もつれていくのである。     広告塔の恐怖  加納博士はその夜以来、ゆくえがわからない。  小田急沿線、経堂にある博士の邸宅は、警察の手によって厳重に監視されているが、博士はいっこう立ちよるけはいもない。おそらく、マダムXと名乗る疑問の婦人と、どこかに潜伏しているのだろう。  その後、警察の調べによって、|今《いま》|戸《ど》|河《か》|岸《し》にあるあの洋館は、一昨年来、博士がさる土地家屋周旋業者から、借りうけていたものであることが判明した。おそらく、博士はマダムXとの|逢《あ》い引きのために、その家を借りていたのであろう。  むろん、洋館のなかは厳重に捜索されたが、|蜘《く》|蛛《も》を飼育する容器以外、これという証拠もなく、河野十吉のつくった、あの無気味な|蝋人形《ろうにんぎょう》も、どこからも発見されなかった。ひょっとすると、吸血画家の津村一彦がかえってくるのではないかと、見張りがつづけられているが、それもいまのところ徒労におわっている。  こうして、十吉の細君の注進によって、やっと|曙《しょ》|光《こう》を見出しかけた幽霊男捜索の|端《たん》|緒《しょ》は、またしてもここにぶっつり切れたばかりか、マダムXの出現によって、いよいよ|昏《こん》|迷《めい》の|淵《ふち》に足をふみいれた感じで、いたずらに、東京都民の神経をいらだたせ、女子供をふるえあがらせる結果におわった。  幽霊男とはあの高名な外科医、加納博士だったのだろうか。博士はマダムXに捨てられて、絶望のあまり殺人鬼になったのか。もしそれならば、マダムXとよりがもどったいま、博士は正気にかえり、そしてもう二度と、あの狂ったような殺人遊戯がくりかえされることはないのではないか。  そういうふうに説くひとがいるいっぽう、いやいや、幽霊男が加納博士であるにしろ、ないにしろ、血まみれ遊戯はまだまだつづくだろう。いちど、血の味をおぼえた悪魔は、いきつくところまでいかなければ、とどまることを知らないのだ。いきつくところまで、……それは、幽霊男の正体をあばき、逮捕することである。それなくしては、永遠にこの血なまぐさい事件は阻止することはできないだろう……。  と、そんなふうに説くひともある。  こうして、少し誇張していえば、東京じゅうのひとびとが、|固《かた》|唾《ず》をのんで幽霊男のつぎの行動を視まもっているとき、ここにまたしても、ひとびとをあっといわせるようなことが起こった。  それは今戸河岸の洋館から、加納博士とマダムXが逃走してから、一週間ほどのちのこと、即ち五月三日のことである。  |数《す》|寄《き》|屋《や》|橋《ばし》のちかくに三角ビルという、すすけた三階建てのビルがあるが、そのビルの三階の、いたって採光のわるいすみっこのほうに、  ヤマト宣伝会社  という、しんちゅうのネーム・プレートをかかげたドアがある。  このヤマト宣伝会社というのは、ちかごろはやる広告塔を利用しての宣伝業者である。  この会社は数寄屋橋をはじめとして、銀座|界《かい》|隈《わい》のめぬきの場所に、五つ六つの広告塔をもっているが、それらの広告塔は、会社の内部にある放送室と有線連結していて、放送室で放送される各種の広告が、広告塔のラウドスピーカーを通じて、道いくひとに呼びかけられるのである。  それは五月三日の、正午ちょっとすぎたころだった。  事務員のほとんど全部が、ちかくのレストランやそば屋へ、昼食を食いにいって、ヤマト宣伝会社の事務室には、佐々木京子というわかい女事務員が、ただひとりしかのこっていなかった。  京子はてばやくお弁当をたべてしまうと、雑誌をとり出して読んでいた。雑誌は映画雑誌だった。  しばらくして、ドアがあいたようだったけれど、京子はべつに気にもとめず、雑誌に読みふけっていた。  すると、かるい足音がちかづき、誰かがデスクのまえに立ったようなので、何気なく顔をあげ、そして、のちに彼女がひとに語ったところによると、心臓が凍りついてしまうような恐ろしさを感じたというのである。  デスクのまえに立っているのは、顔じゅう白い|繃《ほう》|帯《たい》をした男だった。見えるものといっては、ふたつの眼と、鼻の孔と唇だけだった。ふたつの眼が笑うように、うえから京子を見おろしていた。  京子は昭和人形工房の一件を新聞で読んでいたのだ。あのときも幽霊男は顔じゅうに、繃帯をしていたというではないか。  京子は本能的にドアのほうを見た、ドアには内側からかけがねがかけてあった。それを見ると京子は、絶望したような眼を繃帯の男にむけ、なにか叫ぼうとしたが、舌がこわばり、のどがふさがって声が出なかった。  全身から力がぬけて、いまにも気がとおくなりそうだった。  繃帯の男は眼だけで笑いながら、 「どうかなすったんですか。気分でも悪いんじゃないんですか。ひどい汗……」  聞きようによっては、いたわってくれるようでもあるが、また聞きようによっては、あざ笑っているようでもある。  なんとか返事をしなければ、相手をおこらせはしないかと思ったが、あいかわらず、舌がこわばって言葉が出なかった。ただ、まじまじと、繃帯のおくからのぞいている、ふたつの|瞳《ひとみ》を視つめていた。その瞳から眼をはなすのが怖いのだ。京子はいつかじぶんの眼つきが、哀願するような調子になっているのに気がついていた。 「あっはっは、なにも怖いことはないんだよ。ちょっと広告を頼みたいと思ってやってきたんだが、誰もいないようだね」  繃帯の男はそういいながら、右手にぶらさげていたものをデスクのうえにおいた。  京子はギョッと体をうしろへそらせたが、それは小さなスーツ・ケースのようなものだった。 「はあ、あの……いま、お昼休みですから……御用がございましたら、また、のちほど……」  京子はやっと言葉が出た。それだけいって、そっとハンケチで額の汗をぬぐった。  あんまり怖れているふうを見せると、かえって相手をおこらせはしないかと思って、京子はできるだけ恐怖のいろをおさえようとしているのだ。 「いや、君でもいいんだが……」  と、繃帯の男は部屋のなかを見まわし、 「ああ、あれが放送室のドアだね」  と、厚い、防音装置のほどこされたドアのほうに|顎《あご》をしゃくった。 「はあ、あの、さようで……」 「いま、あの部屋にアナウンサーがいるの?」 「ええ……。お昼休みの、書き入れどきでございますから……」 「ああ、そう、それじゃ、ちょうどいい。臨時にこの広告を、組み入れてもらいたいんだがね」  男はそういいながら、胸のポケットから封筒を取り出し、封筒のなかから|便《びん》|箋《せん》をひきぬくと、それを京子のほうにむけてデスクのうえにひろげた。  京子は二、三行それを読んだだけで、ぽかんと顔をあげ、相手の眼を視つめていた。恐怖の度があまり濃かったので、かえって恐怖を表現する神経作用が、サボタージュを起こしたらしい。  男は繃帯のおくでにやにや笑いながら、悠々と懐中からニッケル製の容器を取りだし、パチンと音をさせてそれを開いた。落ち着きはらったものである。  京子もまた放心したように、ぽかんとそれを視つめていたが、ニッケル製の容器のなかから漂うてくる、|甘《あま》|酸《ず》っぱい|匂《にお》いをかいだとたん、さっと恐怖の本能がよみがえってきた。 「いやよ、いやよ、かんにんしてください。助けてください。あたしまだ若いんです。死ぬのはいや、かんにんして……」 「あっはっは、なにも君を殺そうとはいやあしない。あばれると困るから、ちょっと眠っていてもらうだけさ」  繃帯の男はじっとりしめったハンケチを片手に、デスクをまわって京子のほうにちかづいてくる。 「あっ、かんにんして! かんにんしてください! いや! いや! あたし、死ぬのは、いや!」  京子は全身をもって身もだえするが、しかし、|椅《い》|子《す》から立って逃げようとはしない。ちょうど蛇にみこまれた|蛙《かえる》のように、身動きができないのである。  繃帯の男は片腕で京子を抱きすくめると、 「いや、いや、いや!」  と、首をふる京子の鼻のうえへ、力強くしめったハンケチを押しあてた。 「さ、しばらくの辛抱だよ。すぐ楽になる。いい子だからね。おとなしくしておいで、そら、そら、そら、もう利いてきたろう、楽になったろう。あっはっは」  ぐったりと伸びた京子のからだを、机にむかって眠っているような姿勢で|坐《すわ》らせると、繃帯の男はデスクのうえにおいてあった、スーツ・ケースのようなものを取りあげ、つかつかと部屋を横ぎって、放送室のドアのまえに歩みよった。  そのドアにはなかがのぞけるように、小さなガラス窓がついている。そこからのぞくと、アナウンサーがひとり、マイクにむかってなにやら熱心にしゃべっている。防音装置がほどこしてあるのでなにも気がつかないのだ。  繃帯の男は|把手《ハンドル》をまわして、ゆっくり放送室のなかへ入っていった。     踊る幽霊男  |数《す》|寄《き》|屋《や》|橋《ばし》ぎわにある新東京日報社の待合室で、昼飯を食いにいったという、建部健三を待っていた西村鮎子は、とうとう、待ちきれなくなってそこをとびだした。  鮎子はけさまた新しい不安におそわれて、そのことで健三に相談にきたのだけれど、ひとところにじっと坐って待っているのに、たえられないほどの|焦躁《しょうそう》をかんじていたので、新聞社をとびだし、数寄屋橋から銀座のほうへ歩いていくとちゅうで、うまいぐあいに、健三に出あった。 「鮎子、どうしたの。なにかぼくに用事があったの。ひどく顔色が悪いよ」 「ええ、健ちゃん」  と、鮎子はすがりつかんばかりに、 「また、心配なことが起こったのよ。浩ちゃんがゆうべからかえらないんですって」 「浩吉が……?」  健三の顔色もさっとくもる。 「ええ、けさはやくお母さんがうちへ来て……お母さん、狂ったようにみたいになってるわ。幽霊男につれてかれたんじゃないかって」 「そりゃそうだろう。恵子がやられ、また浩吉じゃあねえ。しかし、とにかく歩こう。歩きながら話をしよう」  ふたりは腕をくんで、数寄屋橋のほうへひきかえす。  健三はなんとなく沈んだ顔色で元気がなかった。もっとも、これはきょうに限ったことではなく、ちかごろいつもそうなのだが。 「ところが健ちゃん、それについてちょっと妙な話があるのよ」 「妙な話って?」 「ゆうべ浩ちゃんが女のひとと自動車に乗ってるのを、見たひとがあるんですって。ところが、その女というのが、黒いヴェールをかぶっていたというのよ。だから、あたし……」  健三はぎょっとしたように鮎子を見直し、 「鮎子、それ、ほんと?」 「ええ、ほんとよ。健ちゃん、この話、どう思って、その女、マダムX……」 「ちょ、ちょっと、お待ち、それじゃ、ぼくのほうにも話があるんだ」  健三はあたりを見まわすと声を落として、 「鮎子は昭和人形工房の、河野十吉という男を知ってるだろう」 「ええ、新聞で読んだわ。幽霊男にたのまれて、妙な人形をつくったひとでしょう」  鮎子はまだその人形が、じぶんの顔や寸法に、あわせて作られているとは知らない。それを知ったら、生きているそらはなかっただろう。 「ああ、そう、あの男がおとついの晩から、行く方不明になってるんだ。ところが、それがやっぱり、マダムXらしい女に、つれてかれたらしいというんだよ」 「まあ!」  鮎子は唇の色までまっさおになる。 「いやだわ、健ちゃん、それ、どういうの。マダムXはカーさんをつれて逃げたんでしょう。そのひとがどうして、人形つくりや浩ちゃんをつれてくの。カーさんにしろ、マダムXにしろ、人形つくりや浩ちゃんに用事はないはずよ。カーさんが幽霊男でないかぎりは……」 「しっ、そんな大きな声を出すんじゃない」  健三がひくい声でたしなめているときである。うしろからポンとふたりの背中をたたいて、 「見せつけるねえ、あいかわらず。お美津が生きてたらまっくろ|焦《こ》げだぜ」  と、のんきらしく声をかけたのは、いうまでもなく菊池陽介だ。あいかわらず金縁眼鏡のおくから、女のような眼が笑っている。 「ああ、菊池さん、どちらへ……?」 「君んとこへきたのさ。例会のことでね。四月はお流れになったが、五月はぜひやろうよ。おやじがいないのは残念だが……」  健三も鮎子もこたえない。ふたりとも、それどころでないという顔色である。 「あっはっはっ、どうしたのさ。ふたりとも妙にしょげてるじゃないか。なあに、構うもんか。警察に干渉する権利はないよ。幽霊男は幽霊男、こっちはこっちさ。あんなことにおそれをなしてちゃ、猟奇クラブのこけんにかかわる」  菊池陽介はあいかわらず、のんきらしくしゃべっていたが、ふと思い出したように、 「そうそう、鮎ちゃん、おまえモデルよすんだってね」 「えっ、鮎子、おまえ|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》よすの」  健三がおどろいたように鮎子の顔を見る。 「ええ、だって、だんだん|淋《さび》しくなるんですもの。ひとりひとり減っていって……」  鮎子はかすかに身ぶるいをする。 「うん、あそこをよすのはいい。ぼくも賛成だ。だけどモデルよしてなにするの?」 「あっはっはっ、これは驚いた。色男が知らないなんて。さては、鮎ちゃん、きまりが悪いんでかくしていたな。健ちゃん、健ちゃん、鮎子はね、ストリッパーになるんだってさ」 「ストリッパー……? 鮎子、ほんと?」  健三は眼をまるくする。 「ええ、浅草の麗人劇場の支配人がすすめてくれるもんですから。……鮎子、踊りもなにもできないけれど……」 「なあに、踊りなんかいるもんか。鮎ちゃんくらいの体してりゃ、ただ、腰をくねくねくねらせてりゃいいんだ。ねえ、健ちゃん、ひとつ倶楽部で後援しようじゃないか。おや」  数寄屋橋のうえをバラバラとひとが走っていくのを見て、三人はいったん足をゆるめたが、すぐ、誰からともなく走りだしていた。  数寄屋橋のちかくにある広告塔を取りまいて、いっぱいひとがたかっている。みんな凍りついたような顔をして、広告塔からもれてくる、ぶきみな声に耳をかたむけているのだ。 「それではもう一度くりかえして申し上げます。こちらはみなさま御存じの、幽霊男でございます。たいへんお待たせいたしましたが、いよいよ第三幕の準備完了いたしましたので、ちかくまた、みなさまにお眼通りいたすことが出来ましょう。昭和人形工房でつくられた人形が、この第三幕において、いかなる役目を果たしまするや。なにとぞ御期待くださいますように。そして、うまくまいりましたら、絶大なる御声援を賜わらんことを……」 「畜生!」  と、健三たちの背後で叫んだものがある。 「建部君、建部君、この広告塔の会社は……?」  金田一耕助だった。 「あっ、金田一さん、あのビルです。あのビルの三階です」 「よし! 君たちも来たまえ」  ヤマト宣伝会社の事務室では、佐々木京子がさっきのままの姿勢で眠っていた。放送室をのぞいてみると、そこにもアナウンサーが、床にながくなって眠っている。  そして、テーブルのうえにあるマイクのまえには、テープ・レコーダーがおいてあり、無心に|廻《かい》|転《てん》をつづけているのである。 「それではもう一度くりかえして申し上げます。こちらはみなさま御存じの、幽霊男でございます……」  と、テープ・レコーダーは言葉をくりかえす。一同は|茫《ぼう》|然《ぜん》として顔を見合わせていた。……  さて、その夜おそくのことである。  東京の……どこだかわからないけれど、とある家の一室である。床には|虎《とら》の毛皮がしいてあり、壁には夜光塗料をぬった鳩時計がかかっている。そして、部屋の一隅には、鏡つきの化粧ダンス……。  すべて|今《いま》|戸《ど》|河《か》|岸《し》の洋館とおなじだが、しかし、あの家なら目下、警官の厳重な監視のもとにおかれているはずだのに……。  さて、虎の毛皮のうえにはふたりの人物が、だらしなく寝そべっている。  ひとりはパジャマのうえにガウンの|紐《ひも》をゆるくしめ、顔じゅうに白い|繃《ほう》|帯《たい》をした男である。そして、もうひとりというのは、一糸まとわぬ全裸の女だが、よくよく見ると、それはほんものの女ではなく、|蝋人形《ろうにんぎょう》のようである。どうやら河野十吉のつくった人形らしい。  繃帯の男はその人形に、いろんなポーズをとらせて、さっきからしきりにげらげら悦に入っている。  なるほど十吉は名人だ。手脚から指の関節までしなやかに動いて、ほんものの人間のようである。顔は鮎子にそっくりだった。  繃帯の男は人形の顔に|頬《ほお》すりしたり、抱きしめたり、あるいはみだらなポーズをとらせたり、不潔な楽しみにふけっていたが、なに思ったのか急に人形を抱いて起きあがった。 「そうそう、鮎子はストリッパーになるんだったね。それじゃ、これから踊りをおしえてあげよう。鮎子はバタフライなんか使わないほうがいいよ。そうだ、この銀盆でけいこしよう。二枚の銀盆を両手で持って、かわるがわる、うまくこれでかくしていけばいいんだ。そら、はじめるよ。チータッタ、チータッタ」  蝋人形のうしろから、両手にまるい銀盆を持ちそえて、チータッタ、チータッタと口音楽にあわせながら、踊り狂い、げらげらと、悦に入っている幽霊男のすがたには、なんともいえぬほど、おぞましく、まがまがしいものがあり、|妖《よう》|気《き》と鬼気が部屋のなかにみちていた。     麗人劇場  さて、浅草の麗人劇場へ、西村鮎子がストリッパーとして出演するようになってから、きょうでもう二週間以上になる。  麗人劇場の支配人が、鮎子をくどきおとしてストリッパーに転向させたのは、どうやら成功だったようだ。 [#ここから2字下げ] 問題のヌード・モデルの女王       西村鮎子 特別出演 [#ここで字下げ終わり]  と、大きく書かれた、鮎子のヌード写真入りの立て看板は、六区にむらがる、猟奇の徒の好奇心をそそるに十分だった。  支配人とすればなおそのうえに、「幽霊男に|狙《ねら》われたる……」と、でもうたいたかったのであろうが、さすがにそこまでは警察のてまえ、ひかえなければならなかった。  そのかわり、鮎子のだしものには、「幽霊男に狙われたる女」と、いう意味を、それとなく暗示するように考慮がはらわれ、題も「美女と悪魔」。 「いやだねえ、鮎子、このだしものは……もうそろそろ、ほかの踊りとかえてもらったらどうなの」 「だって、しかたがないわ、健ちゃん、あたし、ろくすっぽ踊れもしないんだから、ああして、梶原さんにリードしてもらうより手がないのよ」 「それにしても、もうすこし趣向がありそうなもんだ。梶原君、悪魔の|扮《ふん》|装《そう》はいいけれど、顔じゅう繃帯してるだろ。おれ、あれが気になってたまらないんだ」 「だって、あれが|眼《がん》|目《もく》じゃないの。あの繃帯で、幽霊男を暗示してるんですもの」 「それもそうだけど……ねえ、鮎子」 「なあに、健ちゃん」 「君のだしもの、とても人気があるだろう。『美女と悪魔』がはじまるころになると、この小屋、いつもはちきれそうなほど満員になるね。鮎子はそのわけしってる?」 「わけって?」 「誰も君の踊りに、感心してるわけじゃないんだぜ。こんなこといっちゃ悪いけどさ」 「あら、悪くもなんともないわよ。じっさい、そのとおりだもん。あたし、踊りも芝居もぜんぜん|素人《しろうと》、大根ですもんね」 「まあ、そういったもんじゃないけどさ。それじゃ、梶原君の悪魔に一枚一枚、着物をぬがされていく……あそこんとこに人気があるのかというと、そうでもないんだ。あんな手、もう古いからね。そりゃ、鮎子の体、とてもきれいなことはきれいだけどさ」 「ええ……。じゃ、いったい、何に人気があるというの」 「それはね、鮎子、梶原君の悪魔が君を裸にして、いろいろたわむれたのち、さいごに君をさし殺すだろ。あそこンところへくると、お客さん、みんな呼吸をのんでるのさ。と、いうのは、いつか幽霊男が梶原君の身がわりになり、舞台で君をほんとに殺すんじゃないかと……みんなそれを期待して、それを|娯《たの》しみにやってくるんだぜ」 「健ちゃん!」  鮎子はさすがにうすら寒そうに、部屋着の肩をゾクリとふるわせると、しゃがれた声で、 「そのことなら、あたしだって知ってるわ。だって、二、三日まえ、踊りがすんで、舞台が明るくなってから、あたしが起きあがって|挨《あい》|拶《さつ》すると、なあんだ、きょうもやっぱり芝居だったのかいと、大きな声でいったお客さんがあったわ」 「そんなこと、いうやつがあるのかい」 「健ちゃん、世の中って残酷なものよ。ね、ひとりの女の生きるか死ぬかという恐怖を、このうえもないスリルだなんて、娯しみにしてやってくるんですもの」  鮎子の声はさすがにさびしそうである。 「でもねえ、健ちゃん、しかたがないわ。あたし食べていかなきゃならないんだもん。踊りもなんにもできないのに、モデル時代よりうんと収入があるというのも、このだしものが当たってるせいよ、ね。だからマネジャーがこのだしもの、つづけようといえばいつまででも、つづけなければならないの。そのかわり、あたしだって用心してるわ。梶原さんのあの|繃《ほう》|帯《たい》、いつも舞台へ出るまえに、あたしが自分でしてあげるの。相手が梶原さんにまちがいないということを、よくたしかめてから。……」 「ふむ、まあ、それくらい用心してりゃいいけど……」  健三はポツンと言葉をきると、所在なさそうにたばこをくゆらせながら、鏡のなかの鮎子の顔をぼんやり見ている。  鮎子はスターあつかいで、楽屋もひとりでひと部屋占領している。  鏡のうえにおかれたフランス人形だの花束だの、ぬぎ捨てられた衣裳だの、部屋にたちこめる香りだの、さてはまた、舞台のほうから聞こえてくるオーケストラの音や、見物席のどよめき。……そこはいかにも、わかいストリッパーの楽屋らしい、はなやかな雰囲気につつまれているのだが、それにもかかわらず、健三はなんとはなしに身ぶるいする。  鏡にむかって化粧によねんのなかった鮎子は、それを見とがめて、 「いやあね、健ちゃん。何を考えてるのよう。あたしに何かまちがいが起こるというの」 「ごめん、ごめん、そういうわけじゃないんだけど……そりゃそうと、菊池さん、くる?」 「たいてい、毎晩、やってくるわ。今夜もそろそろ来るじぶんだけど……それより、健ちゃん、カーさんといっしょに逃げた、マダムXってどういうひとなの。まだわからない?」 「わからないようだねえ、おやじさんの愛人らしいというんだけど」 「カーさんが幽霊男だなんて、変ねえ。健ちゃん、どう思う?」 「ぼく……? さあ、ぼくにもよくわからないけれど……」  言葉をにごす健三の顔色を、鮎子は鏡のなかでさぐるように見ていたが、そこへ出をしらせる合図がきたので、 「健ちゃん、すみません。あたし衣裳を……」 「ああ、ごめん、ごめん、じゃ、ぼく見物席のほうへいってるから……」  健三が出ていくのを待って、鮎子は大急ぎで衣裳をつけ、ひとりで廊下へとび出したが、そのとたん、ぎょっとしたように立ちすくんだ。  薄暗い廊下のむこうのほうで、何やら異様な光がはしったかと思うと、もうもうと煙が立ちこめて、キナ臭い|匂《にお》いがプーンと鼻をつく。 「あら、火事よ、火事よ!」  いましも舞台からかえってきた、ほとんど全裸のストリッパーたちがそれを見つけて、たちまち楽屋じゅう大騒ぎになる。    第六章 誘拐  ちかごろ、毎晩のように麗人劇場へやってくる金田一耕助は、今夜も幕がおりたところで、見物席から楽屋のほうへまわろうとして、とちゅうでばったり健三に出あった。 「やあ」 「やあ」 「熱心ですね」 「あなたこそ」  と、どこか腹のさぐりあいみたいな|挨《あい》|拶《さつ》があったのち、 「鮎子君は?」  と、金田一耕助がたずねた。 「このつぎが出番でしょう。いま、衣裳をつけはじめたので、ぼくは遠慮して出て来たんです」 「菊池さんは?」 「今夜はまだ来ていないようです。たいてい、毎晩くるそうですがね」  立ち話をしているふたりのそばを、舞台からさがってきた踊り子たちが、むせかえるような体臭をまきちらしながら通りすぎていく。 「すると、いま楽屋へいっても無駄ですな。邪魔になるばかりだな」 「邪魔にはならんでしょうが、こんどが例のだしものですから」 「ああ、そう、それじゃわたしも見物席へひきかえしましょう」  健三と肩をならべて、耕助が舞台裏から見物席へ出ようとしたときだ。  にわかに楽屋のほうが騒々しくなったと思うと、 「火事よう、火事よう!」  と、けたたましい金切り声とともに、ドドドと楽屋をゆすぶるような乱れた足音。  金田一耕助と健三が、はっと足をとめるところへ、|煙硝《えんしょう》くさい煙がながれてきて、それに追われるように五、六人のストリッパーが、楽屋の階段をとびおりてきた。 「ど、ど、どうしたんだ!」  舞台裏ではたらいていた道具方がどなりつけると、 「火事です、火事です、二階の楽屋から火が出たんです」  踊り子たちはわっと泣き出した。 「しまった!」  金田一耕助はそれをきくと、|袴《はかま》のすそをラッパのように開いて、舞台裏へとってかえす。建部健三もそれにつづいた。  楽屋はちょうど中二階みたいになっている。その階段を、うえから金切り声をあげておりてくる踊り子たちと、下から駆けのぼろうとする、道具方や作者部屋の連中が、殺気だってもみあっている。  うえを見ると、いくどかほの白い|閃《せん》|光《こう》が走り、もうもうと吹きながれてくる煙が、眼にしみ、鼻にしみ、涙が出る。 「どけ、どけ、どかねえか」 「きゃっ、助けてえ!」  階段からころげおちる踊り子もあれば、その踊り子をふみこえて、二階へ駆けのぼる道具方もあり、舞台裏は殺気と興奮が渦巻いて、ごったがえすような騒ぎである。  しかも、この騒ぎが見物席へもつたわったからたまらない、わっと小屋をゆるがすようなさけび声と、なだれのようなどよめきがきこえてくる。  金田一耕助はひしめきあう踊り子たちをかきわけて、やっと階段に片足かけたが、そのとき、階段のうえへあらわれた男が、やっきとなって怒鳴るのがきこえた。 「しずまれ! しずまれ! なんでもないんだ! だれかが|悪戯《いたずら》をしやアがったんだ!」  道具方らしかった。ゴホン、ゴホンと|咳《せき》をしながら、 「だ、だれかが……だれかが花火と発煙筒をしかけていきゃアがったんだ。ち、畜生!」  金田一耕助と建部健三は、ぎょっとしたように顔見合わせる。  火事ではなかった。だれかが悪戯をして人騒がせをしたのだという。しかし、そのことがまたいっそう、耕助の胸に不安をかきたてた。ふたりは二階へかけあがると、鮎子の部屋へとびこんだが、鮎子のすがたは見えなかった。 「建部さん、階段はほかにもありますか」 「ええ、もうひとつむこうに……」  金田一耕助と建部健三は、まだ煙の渦巻いている廊下をつらぬいて、もうひとつの階段のほうへ走った。 「火事じゃないぞオ。なんでもないんだ。みんな落ちつけ、落ちついて引きかえせ」  あちこちでそんなわめき声がきこえて、ストリッパーたちが、三々五々階段をあがってくる。まだ興奮して泣いているのもあれば、気抜けしたような顔をしているのもある。 「君、君、西村鮎子をしらないか。鮎子をどこかで見なかったか」  金田一耕助がたずねると、 「しらないわよ、そんなこと」  おこったように顔をそむけるのもいたが、なかにひとり、 「西村さんならあの騒ぎでびっくりしたんでしょう。気絶してるところを、誰かが抱いて走っていったわ」 「誰か……誰かって誰だい」 「馬鹿ねえ。それをしってたら誰かなんていやあしない。いままで見たこともないひと、……|海《うみ》|坊《ぼう》|主《ず》みたいな顔をした大男だったわ」 「そ、そ、そしてどっちへいったんだ」 「この階段をかけおりてったけど、それからさきはしらないわ」 「ああ、あのひとなら、医者へつれてくって西村さんを抱いたまま、楽屋口からとび出してったようよ」  ほかのストリッパーが口をはさんだ。 「しまった!」  不吉な予感が耕助の胸をつらぬく。ふたりはころげるように階段をかけおりたが、 「あっ、金田一さん、金田一さん」  と、薄暗いところから呼びとめられてふりかえると、菊池陽介がひとりのストリッパーを抱いて立っていた。 「火事騒ぎがあったんですって。この娘、脚をくじいて泣いてるんだけど」 「あっ、菊池さん、あんた楽屋口から入ってきたんですか」 「ああ、そう、どうして……?」 「それじゃ鮎子にあわなかった? 海坊主みたいな男が抱いてたっていうんだが……」 「あっ!」  暗がりのなかでも、菊池の顔色の変わるのがわかった。 「じゃあ、あれ、鮎子だったんですか。大男が通りのほうへ抱いていったが……ねえ、君……」  菊池は抱いている女に声をかける。女の返事はきこえなかったが、それを聞くと金田一耕助と建部健三は、 「しまった」  と、さけんで楽屋口からとびだしていく。 「ちょ、ちょっと待ってください。ぼ、ぼくもいきます」  女をおろして菊池もあとからやってきたが、そのころにはもう海坊主のような男も、鮎子のすがたも見えなかった。  それから間もなく、騒ぎにおびえていちはやく、外へとびだしていた踊り子たちが、おいおい楽屋口からかえってきたが、彼女たちのなかに、女をかかえた大男が、|怪《け》|我《が》|人《にん》が出来たから病院へつれていくと、表の通りに待っていた、自動車にのっていくのを見たものがあり、どうやら、鮎子の|誘《ゆう》|拐《かい》されたらしいことがはっきりしてきた。 「畜生ッ、畜生ッ、やられた、やられた!」  金田一耕助は髪の毛をかきむしってくやしがる。  菊池陽介と建部健三は、|茫《ぼう》|然《ぜん》たる顔を見合わせていた。     鮎子の冒険  さて、こちらは西村鮎子である。  彼女は気絶していたのではなかった。|閃《せん》|光《こう》と煙を認め、 「火事だ、火事だ!」  と、いう叫びを聞いたとき、彼女はほんとに火事だと思い、一瞬、ジーンと身内がすくんだが、そのとき、横からとびだしてきた男が、 「あっ、危い! ぐずぐずしてちゃ駄目だ!」  と、叫びながら、オーヴァのようなもので彼女をくるんで抱きあげた。とっさのことで、はっきりわからなかったが、コール天のズボンに、印ばんてんを着ているようなので、彼女はてっきり道具方であろうと思った。  抱きあげられたとたん、煙がのどにしみこんで、鮎子ははげしく|咳《せ》きこんだ。すると、男がすばやく黒い布を頭から、スッポリかぶせてくれたが、それも鮎子は好意的にかんがえて、抵抗しようとはしなかった。 「火事だ、火事だア、逃げろ、逃げろ!」  男は叫びながら走っていく。  女の悲鳴に男の怒号、ごったがえすようなあたりの|喧《けん》|騒《そう》に、鮎子はてっきり劇場がもえくずれるのであろうと思って、必死となって男の胸にしがみついていた。  男は階段をかけおりると、 「怪我人だア、怪我人だア!」  と、叫びながら、いずくともなく走っていく。  頭からスッポリ黒い布をかぶせられているので、鮎子はどこへつれていかれるのかわからなかったが、やがて自動車に乗せられる気配がして、その自動車が走りだすのをかんじたとき、さすがに彼女もはっとした。 「あっ、ど、どこへいくんです!」  鮎子は男の手をふりはなして、頭から黒い布をかなぐりすてようとしたが、がっきりと|羽《は》|掻《が》いじめにした男の腕は、鋼鉄のように強かった。 「しずかにしていな。じたばたするとためにならねえぜ」  |威《い》|嚇《かく》するような男の声に、鮎子はまたはっと呼吸をのむ。 「あなたは誰です。あたしをどこへつれていくんです」  黒い布のしたから、鮎子はいまにも泣き出しそうな声である。 「どこでもいいさ。おまえに用事があるからつれていくんだ。声を立てるとこれだぜ」  大きな男の手が、布のうえから鮎子ののどへきて、しめるようなまねをする。  鮎子はゾーッとふるえあがった。絶望的な恐怖がつめたく背筋をつらぬいて走った。  ああ、それではさっきの火事騒ぎは、じぶんをつれだす、非常手段だったのではあるまいか。  だが、そのとき、 「だめよ、河野さん、あんまりその|娘《こ》をおどかしちゃ……」  と、思いがけなく運転台から、女の声がきこえたので、鮎子は遠くなりかけた気を、またはっと取りなおした。どうやらハンドルを握っているのは女らしい。 「あっはっは、これくらい薬をきかしておかねえと、ここでうっかり声を立てられちゃ、ぶっこわしでございますからね」 「それもそうだけど、あんまり薬がききすぎて、気が変になっても|可哀《か わ い》そうよ」 「なあに、そんな心配はねえでしょう。どうせあんな商売をしているんですもの、海千山千のしたたかもんにきまってまさ」 「そりゃそうかもしれないけど。……」  しばらく黙っていたのち、 「ときに、河野さん」  と、女がまた運転台から呼びかけた。 「へえ、マダム」 「間違っちゃいないでしょうねえ。その娘、西村鮎子にちがいないでしょうねえ」 「へえ、そりゃまちがいございません。あっしゃこの娘の写真をモデルにして、人形をつくったんですからな。この娘のことなら顔はもとより、体のすみずみまでしってるんでさあ。あっはっは」  鮎子はとつぜん、|奈《な》|落《らく》へつきおとされるようなショックをかんじた。  幽霊男にたのまれて、女の|蝋人形《ろうにんぎょう》をつくった男は、たしか河野十吉といった。そして、その河野十吉は、マダムXにつれられて、すがたをくらましたという話だ。  いま、自分を抱きすくめているこの男は、河野という名前らしい。すると、この河野からマダムと呼ばれているこの女こそ、加納博士をつれて逃げた、疑問の女、マダムXではあるまいか。  鮎子はむらむらと好奇心がわきおこるのを感じた。加納博士の愛人だというマダムX、その女を見たいという女らしい好奇心に、鮎子はいっとき恐怖もわすれた。頭から黒い布をとりのけようともがいていると、 「これ、じっとしていねえか。あばれるとこれだぜ」  大きな手がまたのどへくる。  自動車は相当のスピードで走っている。どこをどう走っているのか、黒い布を頭から、スッポリかぶせられた鮎子には、もちろんわかりようはなかった。たびたび道をまがるのは、尾行をまくためと、鮎子に道筋をおぼえられぬためらしい。  三十分ほど走ったのち、自動車のスピードが急に落ちてきた。 「河野さん、尾行は大丈夫でしょうねえ」 「へえ、さっきから気をつけてますが、べつにつけてくるような気配はねえようです」  自動車は門のなかへ入ったようすで、やがてぴったりとまった。  鮎子は自動車からおろされると、いきなり黒い布をかなぐりすてた。男ももうそれをとめはしなかった。ただ、しっかり腕をつかんでいるだけだった。  あたりを見まわすと、そこはクリーム色にぬった近代的な洋館の、かなり広い玄関さきだった。玄関の外に|電《でん》|燈《とう》がついている。その電燈の下に立って、女がドアを開いている。女は男装をして鳥打ち帽をかぶっていた。  やがて、ドアがひらくと女はこちらをふりかえったが、そのとたん、鮎子は電撃的なショックを感じた。  女があまり美しかったからだ。年齢は三十前後だろうが、すらりと均整のとれた体をしており、貴族的なそのおもだちは、|臈《ろう》たきまでの気品をおびている。それでいて、思いたったら、どんなことでも決行するという、強い意志を秘めているのだ。  鮎子はいわれのない|嫉《しっ》|妬《と》と敵意に、胸のなかに|蒼《あお》|白《じろ》い炎がもえあがる。女は鮎子の顔をながしめに見て、 「河野さん、そのひとをなかへつれていって。あたしは自動車を片づけてこなきゃならないから」  命令することになれた|口《こう》|吻《ふん》だ。 「へえ、承知しました」  女が玄関からおりるのといれちがいに、男が鮎子の手をひいて玄関へあがった。鮎子はすなおにそれについていく。  そのすなおさが一瞬男のゆだんをまねいたのだ。男はまず鮎子のからだをドアのなかに押しこむと、じぶんもそのあとにつづこうとしたが、その瞬間、鮎子は男の手をふりはらい、相手の胸をつきとばすと、バタンとドアをしめた。さいわい、ドアの内側には掛け金がついてる。鮎子は手ばやくそれをおろした。 「ち、畜生! ど、どうするんだ、開けろ、開けろ!」  ドアの外から男がどんどん乱打する。その音をきいたのか、奥のほうでドアの開く音がして、足音がこちらへ近づいてくる。鮎子は追いつめられた獣のような眼つきをして、あたりを見まわしていたが、ホールの左側についている階段を見つけると、夢中でそれを駆けのぼった。  階段をのぼるとドアがあり、ドアの|鍵《かぎ》|穴《あな》に鍵がさしてある。鮎子はすばやくドアを開くとまっくらな部屋にとびこみ、なかからドアに鍵をかけた。  鮎子の心臓は|早《はや》|鐘《がね》をつくように踊っている。いまの急激な運動で呼吸がきれそうだ。  鮎子はしばらくドアにもたれ、呼吸をしずめて、外のようすをうかがっていたが、ふと思いついて壁ぎわのスウィッチをひねった。  そして、部屋のなかを見まわしたとたん、鮎子は全身の毛という毛が、さかだつような恐ろしさをおぼえたのである。     寝台の女  そこは明らかに女の寝室である。  ひろい部屋はふたつに区切られていて、手前のほうが化粧室になっているらしく、豪華な三面鏡のうえに、さまざまな香料や脂粉の類がならんでいる。  電気スタンドのシェードにも、女らしい趣味がうかがわれる。  この化粧室のおくに、両側から真紅のカーテンでしぼられた寝室があり、その寝室のおくに、|天《てん》|蓋《がい》つきの、中世紀ふうな、これまた豪華な寝台がおいてあって、その寝台のうえに女がひとり寝そべっている。  下半身はピンクの毛布におおわれて見えないけれど、むき出しになった上半身からみると、女は裸で寝ているらしい。両手を頭のうしろに組み、下半身をおおうた毛布のふくらみから察すると、|膝《ひざ》を立てて組んでいるらしい。  しかし……それにしても、なぜ、女はあんなにじっとしているのだろうか。女の顔はこちらにねじむけられ、その眼は鮎子をまともに見ているのである。それにもかかわらず、女は身うごきはおろか、まばたきひとつしないのだ。  その異様なしずけさと、つめたいまでの肌の白いかがやきが、また、ふっと、鮎子をまっくろな恐怖のふちにつきおとした。いままでに、何度も何度も見てきた、女の死体を思い出したのだ。  鮎子はなにかに魅せられたように、ベッドのほうへちかづいていく。それにもかかわらず、女は身動きはおろか、まばたきひとつしない。いや、呼吸をしているけはいさえもかんじられぬ。  ベッドから二、三歩のところまできて、ふいに鮎子はぎょくんと立ちどまった。そして、眼じろぎもせずに女の顔を視つめた。  そこまでくると、いままで天蓋のために、いくらか暗くなっていた女の顔がはっきり見えるが、なんとその顔はじぶんにそっくりではないか。  とつぜん、はげしい|戦《せん》|慄《りつ》が鮎子の背筋をつらぬいて走った。  鮎子の|脳《のう》|裡《り》にまざまざと、さっき自動車のなかで、河野十吉のいっていた言葉がよみがえってくる。 「あっしゃこの|娘《こ》の写真をモデルにして、人形をつくったんですからな。この娘のことなら顔はもとより、体のすみずみまでしってるんでさ。あっはっは!」  鮎子はベッドのそばへ走りより、さっと毛布をまくりあげた。それはもうまちがいもなく、鮎子をモデルにした蝋人形だった。  鮎子はこころみにその人形の手脚をうごかしてみる。人形の手脚の関節は、まるで人間のようにしなやかにうごく。  鮎子の背筋を、またドスぐろい戦慄が走りすぎる。  人間のように、手脚の関節がしなやかにうごく人形……新聞の報道によれば、それが幽霊男の注文だったのだ。その人形がここにあるからには、ここが幽霊男のかくれ家であることには、もう疑いの余地はない。  鮎子はとつぜん身をひるがえして化粧室へもどった。ドアの外に足音がきこえたからだ。コツコツとドアを|叩《たた》く音がして、 「鮎子や、ここをあけておくれ。おれだよ、カーさんだよ、加納のおやじだよ」  鮎子はその声をきくとゾーッとふるえあがった。ああ、その声……その|猫《ねこ》なで声こそは、幽霊男が血を吸うまえに、女をたぶらかす声なのか。 「鮎子や、鮎子や、なんにもこわいことはないのだよ。さあ、このドアをあけておくれ。そうすれば、なにもかも話をしてあげるからね」  加納博士の猫なで声をききながら、鮎子は絶望的な眼であたりを見まわす。  窓が眼についた。窓ガラスを開いていると、 「鮎子! このドアを開きなさい!」  加納博士のするどい声だ。それにつづいて、 「駄目よウ、三ぶ……そんなに|癇癪《かんしゃく》を起こしちゃ……」  と、やさしくたしなめる女の声がして、 「河野さん、あなたがいけないのよ。あんまりおどかすもんだから」 「へえへえ、どうもすみません、もし、お嬢さん、ここをあけなさいよ。先生にゃこんなきれいな奥さんがおありなんだから、おまえさんをどうするもんか。血なんか吸やあしないから大丈夫だ」 「あれ、また、あんなことを……」 「へっへっへっ!」  鮎子の絶望のおもいはいよいよ痛烈になる。彼女はいつか見た吸血鬼の映画を思い出していた。  吸血鬼に血を吸われて死んだものは、みずからも吸血鬼になるというではないか。河野十吉も吸血鬼の|眷《けん》|属《ぞく》におちたにちがいない。いや、いや、そもそものことの起こりは、あのマダムXにちがいない。あの女こそヴァンパイヤーなのだ。カーさんはあのヴァンパイヤーに生き血を吸われて、浅ましい吸血鬼の境涯におちたのだ。  いやだ、いやだ、あたしはあんな女の眷属になりたくない。  なかば狂った頭で、鮎子はやっと窓を開いた。 「鮎子、いけないよ。おとなしくここを開けなさい。あっ、とんだ!」  ドスンと鈍い音をたてて、庭のほうから地響きがきこえてきた。 「いってみよう、|怪《け》|我《が》がなきゃいいが……」  男装のマダムXと、スモーキング・ガウンの加納博士、それに海坊主のような河野十吉が、あわてて階段をかけおりていったあと、そっとドアを開いたのは鮎子である。  鮎子は部屋にあったブロンズ像を投げおとしたのだ。どうやらその計略は図に当たったらしい。  鮎子は階段をかけおりると、玄関から外へとび出した。さいわい、玄関も門もまだしまっていなかった。  鮎子は門からとび出すと、まっ暗な道をひた走りに走った。その家がどんな家なのか、見さだめる余裕もなく、むろん、暗い夜道の西も東もわからなかった。うしろから誰か追っかけてくる気配なので、まっくろな恐怖につかまれた彼女は、いよいよ気持ちの余裕をうしなっていた。  あとから考えてみると、それはかなり|滑《こっ》|稽《けい》なすがただったにちがいない。鮎子はほとんどヌードのうえに、レーン・コートをひっかけているだけなのである。そのレーン・コートは河野十吉が着せてくれたものだが、あとで気がつくとそれはじぶんのものだった。  やっと明るい通りへ出たところで、うまいぐあいに空車が通りかかった。  それを呼びとめて、 「浅草へやって……浅草の麗人劇場へ……」  それだけいうと、鮎子はとうとう気が遠くなってしまった。     奇妙な舞台  翌日の朝刊は鮎子のこの冒険|譚《だん》で、またわっとわきたった。  鮎子の告白をきくと、加納博士が幽霊男であることは、もはや間違いはなさそうだ。ああいう非常手段を|弄《ろう》して、鮎子をうばっていったばかりか、そこには、幽霊男が十吉につくらせたという蝋人形さえあったのだ。  それこそ、加納博士が幽霊男であるという、何よりも雄弁な証拠ではないか。  さて、問題はその家なのだが、それに関するかぎり、鮎子は効果的な証言をすることができなかった。鮎子のおぼえているのは、その家の玄関さきの、ごくわずかな部分にしかすぎなかった。  とび出した門がどんな門だったのか、生け垣だったのか、それとも人工的な塀だったのか、鮎子はそれすらおぼえていない。いっさいが夢魔の世界の出来事で、鮎子の記憶にのこっているものは、ただまっくろな恐怖ばかりである。  ただひとつ、捜査の手がかりとなると思われたのは、鮎子のひろった自動車の運転手の証言である。  運転手が鮎子に出あったのは、青山三丁目だった。そこでその地点を中心として、東西南北に捜索の手がひろげられたが、しかし、それも効果があがらなかった。  門のかたちか塀の種類か、なにかちょっとした目印でも、鮎子がおぼえているとよかったのだが、それが皆無なのだからむつかしい。  それに、その家をとびだしてから、青山三丁目までたどりつくに要した時間だが、それもハッキリしなかった。五、六分くらいかもしれないし、それとも、十五、六分も走っていたかもしれないと彼女はいうのである。  こうして、捜査陣の奥歯にもののはさまったようないらだちのうちに、三日とたち、五日とすぎていった。  鮎子はあの夜のショックのために、あと二日、麗人劇場をやすんだが、三日目からまた舞台に立っている。あの夜の事件のために、いっそう人気がわき立ったので、劇場のほうでながく休ませてくれなかったのだ。  そのかわり、楽屋への出入りの警戒はげんじゅうをきわめた。あの晩、河野十吉は踊り子たちをおとくいとする、洋食屋の出前持ちにばけて入りこんだことがわかったので、楽屋口からも、見物席からも楽屋へはいる入り口には、げんじゅうな関所がもうけられた。 「この警戒は当座だけのことと思うけど、それでもあたし、こうして舞台へ出てるほうがいいの。おなじ殺されるなら、舞台のほうがはなやかでいいじゃないの」  今夜も楽屋へきている菊池陽介や建部健三にむかって、鮎子はニヒルな笑顔をむける。あれ以来、鮎子は楽屋にウィスキーの瓶をそなえつけていて、今夜もかなり酔っぱらっている。 「鮎子、そんなつまらないこというもんじゃない。もっと希望を持たなきゃ……」  健三はおだやかにたしなめるが、その顔色は妙に沈んで、言葉にも熱がかけている。 「有難う。でもねえ、健ちゃん、あたし考えたわ」 「考えたって何さ」  菊池陽介はあいかわらず、のんきらしい顔色である。 「世間でよくいうじゃないの。夢でも幻でも、自分の死ぬところを見たものは、間もなくほんとに死ぬって。あたしは夢でも幻でもなく、げんにこの眼で、じぶんの死んでるとこを見たんだもン」 「自分の死んでるとこだって……?」 「ええ、そう、あの蝋人形のことよ。あの人形、それこそあたしにそっくりだったわ。気味がわるいくらい。しかも、あたしあの人形を、てっきり死んだと思ってたんだもの。きっとちかいうちにじぶんが死ぬ前兆ね」 「あっはっは、鮎子もえらく迷信家になっちゃったな」 「そりゃそうかもしれないわ」  鮎子はまたウィスキーを|呷《あお》りながら、 「だってあたし人間というものが、信じられなくなったんだもン。カーさんみたいなひとが幽霊男だなんて……きっとあの女が悪いのよ。マダムXっていうあいつが……」  鮎子が急にポロポロ涙を出して泣きだしたので、菊池と健三が顔見合わせた。 「鮎子」  健三はちょっとびっくりしたような眼で、鮎子の顔を見まもりながら、 「おまえ、おやじが好きだったの、|惚《ほ》れてたのかい」 「そうよ、そうよ、あたしカーさんが好きだったのよ。いくらか惚れてたのかもしれないわ。だって、あのひととても単純で、お坊っちゃんみたいなひとだったんだもン。ああ、もう、あたし死んでしまいたい」  鮎子は手ばなしで泣き出した。  健三はいくらか|蒼《あお》ざめた顔をして立ちあがる。菊池がその手をとって、下からニヤリと笑うと、 「やきもちなんだよ」 「え?」 「マダムXをやいているんだ。じっさいはそれほど、おやじに惚れてたわけじゃあるまいが、マダムXなんて妙に神秘的な女が現われたんでね、ちょっと変な気になってるんだ」 「しらない、ふたりともむこうへいって!」 「はいはい、こりゃ相当のヒスだ」  ふたりが立ちあがったところへ、相手役の梶原が入ってきた。 「鮎ちゃん、それじゃ|繃《ほう》|帯《たい》をしてもらおうか」  梶原はぴったり身についた黒い総タイツを着て、悪魔の|扮《ふん》|装《そう》をしている。鮎子は死を覚悟しているようなことをいってるものの、それでもいまだに舞台へ出るまえに、みずから、相手役の梶原の顔に繃帯をするのである。  建部健三と菊池陽介は、ふたりをのこして部屋を出ると、舞台裏から見物席へまわったが、健三が生きている鮎子を見たのは、それがさいごだった。  見物席はきょうも超満員である。  世の中は残酷なものよと、いつか鮎子もいったとおり、そこへ来ているお客さんの大半は、鮎子の踊りはもとよりのこと、ヌードを見にきているのでもなかった。  何か起こりはしないか……血みどろな、血も凍るような惨劇が、眼のあたり見られるのではあるまいかと、それを|娯《たの》しみに日参している男もあるくらいだ。そして、その夜こそ、かれらの希望はみたされたのだ。 「美女と悪魔」——  その夜の、そのだしものは幕明きからして、いささか変てこだった。  薄暗い照明……真っ黒な背景のまえにおかれた張りこの岩がひとつ。……おどろおどろしいオーケストラの伴奏で、岩がふたつにわれると、なかから梶原の悪魔がとび出してくる。  梶原のダンスは相当うまい。いつもなら鮎子の出のまえに、かなり長いソロがあるのに、今夜はすぐに、岩のなかから鮎子をひっぱりだした。 「ああ、ひどく酔っている」  見物席の健三がつぶやいた。  まったくそのとおりで、梶原の腕にだかれた鮎子は、ほとんど体の中心がとれない。  これでは踊りにならないと思ったのか、梶原は鮎子を抱いたまま、一枚一枚身につけたうすものをぬがせにかかる。  テンポもなにもないそのしぐさに、オーケストラ・ボックスでも、ちょっととまどいしたようだったが、そのときだ。見物席のいっかくから、とつぜん、場内を圧するような怒号がとどろいたのは。…… 「電気をつけろ、照明をもっと明かるくしろ! その舞台、少しおかしいぞ!」  等々力警部の声である。警部のそばには、金田一耕助が緊張した顔色でひかえている。     美女と悪魔  誰が見ても、その舞台はおかしかった。  鮎子は骨を抜かれたようにグニャグニャしているし、梶原は踊りのテンポも、わきまえていないかのような振舞いである。  何か起こるのではないかと期待していた観客が、ひょっとすると、すでに何か起こったのではないかと、シーンと呼吸をのんで、この奇妙な舞台を見まもっていた折柄だけに、等々力警部のそのひと声は、場内に水爆でもおとしたような効果をもたらした。 「わーっ!」  と、叫んで観客一同総立ちになる。照明係があわてて照明を明るくした。  そのとき、舞台ではすでに奇妙なことが起こっていた。  すっかり鮎子を裸にしていた黒衣の悪魔は、照明が明るくなったとたん、左手に鮎子の裸身をかかえ、右手にふりかぶった短剣を、さっと鮎子の乳房のうえにふりおろした。 「あっ!」  一同は思わず手に汗握る。  鮎子はしかし声も立てない。あいかわらず、男の腕に抱かれたままグニャグニャしている。それにおかしなことには、乳房のうえに短剣がつっ立っているのに血も吹かないのだ。  顔じゅう繃帯をした黒衣の男は、繃帯のおくでニヤリと笑うと、あっけにとられて、しずまりかえっている観客席のほうへ、ペコリと、ひとを小馬鹿にしたようなお辞儀をすると、身をひるがえして、背後の岩のなかへとびこんでいく。  そのときになって、等々力警部がまた叫んだ。 「その男をつかまえろ、その男を逃がすな!」  叫びながら等々力警部は舞台のほうへ突進していく。そのあとから金田一耕助も、|袴《はかま》の|裾《すそ》をラッパにして走った。  舞台の|両袖《りょうそで》から幕内の連中がバラバラととび出し、観客席の前方から、建部健三と菊池陽介が、金田一耕助や等々力警部より、ひとあしさきに舞台へとびあがった。  観客は総立ちになったまま、凍りついたように舞台のほうを視つめている。  金田一耕助と等々力警部が、舞台へあがっていったとき、そこにも、足下によこたわる白い裸身をとりまいて、凍りついたような群像が形成されていた。  等々力警部はまえに立ちはだかる男をつきのけて、舞台にょこたわる裸身のうえに眼を落としたが、そのとたん、ギョッとしたように金田一耕助をふりかえった。それに対して耕助は、ただうなずきかえしただけである。  そこによこたわっているのは西村鮎子ではなかった。鮎子とそっくりおなじ顔かたちをしているが、|蝋《ろう》でつくった人形だった。鮎子のヌード写真をモデルとして、生き人形つくりの名人、河野十吉がつくった人形なのだ。  蝋人形の胸に、ほんものの短剣がつっ立っているのが、やや不自然で、|滑《こっ》|稽《けい》だった。  しかし、誰もそれを笑うものはない。みんなこの蝋人形の恐ろしい意味をしっているのだ。 「西村鮎子はどこにいるんだ!」  とつぜん、等々力警部が眼を血走らせて怒号した。  その声にはっと眼がさめたように、建部健三と菊池陽介が岩のなかへとびこんだが、 「あっ、ここに誰か倒れている!」  等々力警部と金田一耕助が駆けよると、岩のなかに倒れているのは、悪魔の扮装をした男だった。顔に白い繃帯をまいている。 「その繃帯をとってみろ!」  警部の命令にわかい座員が、おそるおそる繃帯をとったが、それは鮎子の相手役の梶原だった。何か強い薬をかがされているとみえて、梶原は|昏《こん》|々《こん》としてねむっている。 「畜生ッ、それじゃさっきのやつが幽霊男だ!」  建部健三は気が狂ったような眼つきをして、舞台裏へとびこんでいく。菊池陽介もそのあとにつづいた。警部もそのあとを追おうとするのを、金田一耕助が腕をとってひきもどして、 「警部さん。そのまえに出口出口を、げんじゅうに警戒させたほうがいいですよ。私服のひと、来てらっしゃるンでしょう」  警部がうなずいて合図をすると、数名の私服が客席から舞台へあがってきた。刑事たちは等々力警部の命をふくんで、すぐそれぞれの部署へちっていく。そのあとで、金田一耕助と等々力警部は岩のなかへはいっていった。  一方、舞台には幕がおろされて、幕内主任が観客に|挨《あい》|拶《さつ》をしたが、そのことがかえっていけなかった。 「幽霊男が当劇場内に潜伏している疑いがありますので、警察のかたがたの調査が一段落つくまで、なにとぞ|御静粛《ごせいしゅく》にお待ちくださいますように」  うっかりそんなことをしゃべったから、さあ、たいへん、観客席は大混乱におちいった。  なかにはそれを待っていたんだといわぬばかりに、面白がってねばっている客もあったけれど、たいていの客は怖がって逃げようとする。それを制止するために、応援の警官が駆けつけるやら、麗人劇場のまわりは、てんやわんやの騒ぎになった。  この騒ぎは楽屋のほうでもおなじだった。いや、楽屋のほうがいっそう深刻だったろう。  幽霊男がこの楽屋に潜伏しているといわれて、ストリッパーたちはふるえあがった。それでなくとも、このあいだの火事騒ぎ以来、神経質になっているストリッパーたちは、ただわけもなく怖がって右往左往するので、これがどんなに捜査のさまたげとなったかわからない。  しかし、さいわい、「美女と悪魔」の幕があいて以来、誰も楽屋口から出たものはないという。しかも舞台と観客席のあいだは、げんじゅうに連絡がたたれているのだ。してみると、幽霊男はまだこの楽屋の、どこかにひそんでいるにちがいない。そして、もちろん、西村鮎子も。……  応援の警官もまじえて、楽屋のなかはすみからすみまで捜査されたが、しかし、ふたりの姿はどこにもみえない。こうして、ストリッパーたちの狂気のような混乱のうちに、十分とすぎ、二十分とたっていく。 「いいや、そんなはずはない。どこかにいるんだ。どこか見落としてるところがあるんだ。みんなもっと注意ぶかく探してみろ!」  たまりかねて等々力警部が叫んだとき、見物席のほうからだしぬけに、わあッと異様などよめきがきこえてきた。     ダイビングする女  その日、見物席にいた客が、のちになってひとに語ったところによると、 「そりゃ、あのときは、なんともいえぬ変てこな気がしましたね。だしぬけにスルスルと幕があがったでしょう。だいたい、幕明きなんてものは、いつも見物が緊張してるもンでさ。劇場のほうでもベルを鳴らすとか、オーケストラをはじめるとか、歌舞伎や新派なら|柝《き》の|頭《かしら》とか、いろいろ手を使って、見物の注意を、舞台のほうに|惹《ひ》きつけるくふうをするもんです。つまり、それほど幕明きてなものはだいじなもんだが、それだのにあのときは……」  なんの合図も前触れもなく、だしぬけにスルスル幕があがったから、これには見物一同、ちょっとどぎもを抜かれた感じだった。  見物席でけんけんごうごうと、幽霊男を論じ、西村鮎子の生死について、|賭《か》けをしていたような連中も、それに気がつくと、ひとり黙り、ふたり黙り、はては針が落ちてもきこえるような沈黙が、麗人劇場の見物席を支配した。  言いかえれば見物一同、かたずをのんで舞台を見まもっていたのである。  しばらくのあいだ、舞台にはなんの変化も起こらなかった。背景もさっきのままで、登場人物もひとりもいなかった。  これを脚本のト書き流にいうと、  ——舞台しばらく空虚……と、いうやつだろう。  しかし、どのような巧妙な演出家にしろ、舞台しばらく空虚というト書きを、あれほど効果的に演出したひとは、おそらくいままでひとりもいなかったろう。  これもそのとき、見物席にいたひとの言葉だが、 「じっさい、あのときのスリルというか、|興《こう》|奮《ふん》というか、魂のうずくような緊張は、いまでも忘れることができませんよ。満場水をうったような静けさで、舞台を見まもっていたもんです」  そのうちに舞台の上方から、しずかに丸い玉がおりてきた。それもひとつではなく、数十個にのぼる大小さまざま、色とりどりの玉が、舞台一面にぶらさがってきた。  この麗人劇場の常連なら、誰でもしっているところだが、それはフィナーレの舞台面につかう水玉だった。  フィナーレは海底の場面で、それらの水玉のなかで数名のストリッパーたちが、宙乗りのストリップ・ダンスを演ずるのが、呼び物になっていた。  おやおや、それでは事件は事件として、やはり|演《や》るだけのことは演るのかな、それにしても、伴奏もなにもないのが変だが……と、見物がちょっと|唖《あ》|然《ぜん》とした気持ちで、舞台を見まもっているうちに、色とりどりの水玉は、舞台いっぱいにひろがって、所定の位置に静止した。  と、思うと、少し間をおいて、こんどは舞台の正面やや左よりのところから、なにやら黒いものがぶらさがってきた。よくよく見ると、それは「美女と悪魔」に登場する悪魔である。悪魔は依然として顔に白い繃帯をまいている。  あの悪魔こそ幽霊男ではないのか……。  見物が|慄《りつ》|然《ぜん》たる沈黙のうちに見まもっているうちに、悪魔の体は舞台の中央よりやや上方に静止した。仰向けになった体をややななめに倒して、両手はなにものかをさし招くように、上のほうへさしのべられている。  その誘いに応ずるかのように、こんどは全裸の女が、しずかにうえから天下ってきた。ちょうどダイビングをするような姿勢で、均斉のとれた肢態がよくのびている。  とつぜん、かすかなどよめきが見物席の一角から起こった。はじめのうち、そのどよめきはごくかすかなものだったけれど、つぎからつぎへと波及していくうちに、しだいに興奮の度をたかめて、はては|潮《しお》|騒《さい》のような|喧《けん》|騒《そう》になっていった。  ひとびとは見たのである。いま天くだってきたダイビングする女の胸に、短剣のようなものが|柄《つか》をもとおれと、根本まで突っ立っているのを……。  誰かが何かを叫ぼうとしたとたん、パッとほの白いフラッシュが走った。どこかで写真をとったらしい……。  と、思う間もなく、そのかすかな震動が波及したのか、ダイビングする女のからだが、宙で二、三度ふらふらゆられたかと思うと、胸に突っ立っていた短剣が、カタリと音を立てて、舞台におちた。  と思うと、女の胸から真っ赤な液体が、|滴《てき》|々《てき》として舞台に降りはじめたのである。 「キャッ!」  満場総立ちになって、恐怖のなだれをうってかえしたが、等々力警部が楽屋できいたのは、そのどよめきだったのだ。 「なんだ、あのどよめきは……?」  等々力警部がはじかれたようにふりかえったとき、幕内主任がまっさおになって駆けつけてきた。 「警部さん、警部さん、き、来てください。に、西村鮎子が……」 「西村鮎子が見つかったのか!」  しかし、幕内主任はそれにこたえることができない。ガタガタふるえながら、まるで腰でもぬかしそうな|恰《かっ》|好《こう》だ。  やがて、あちこちで、ストリッパーたちの悲鳴が聞こえ、場内は騒然たるどよめきにつつまれた。 「警部さん、い、いってみましょう。舞台でなにかあったらしい」  金田一耕助は|袴《はかま》の|裾《すそ》を、ラッパのように開いて走り出したが、さすがのかれも舞台の|袖《そで》まできて、ひょいとうえを見たときは、文字どおり、全身の血も凍るかと思われるばかりの恐ろしさにうたれて、一瞬そこに|釘《くぎ》づけになってしまった。  ああ、これこそ幽霊男の演出した、世にも恐ろしい大芝居なのだ。かれはもののみごとに、予告を実行にうつしてみせたのだ。しかも衆人環視のなかで。 「ダイビングする女」……  おそらくそれがかれの|狙《ねら》った構図であろう。金田一耕助は胸の悪くなるような嫌悪と、全身がやかれるような、憤りをおぼえずにはいられなかった。 「幕をしめろ! 幕をしめろ! それからあのふたつの体をおろせ!」  いつのまにうしろに来たのか、等々力警部が耕助の耳の鼓膜も、やぶれんばかりに怒号する。警部の|双《そう》|眸《ぼう》はまるで気がくるったような、凶暴な光をはなっている。  警部の怒号に幕内のひとたちは、やっとこの恐ろしい悪夢から解放された。 「ちきしょう!」  道具方のひとりが叫ぶのを合図に、ひとびとはにわかに|活《かっ》|溌《ぱつ》にうごきはじめた。  ただちに幕がおろされて、宙にういている美女と悪魔が、ていねいに舞台へ抱きおろされた。  ダイビングする女が西村鮎子であり、鮎子がすでに死んでいたことはいうまでもない。 「じぶんの死ぬところを見たものはちかく死ぬ……」  鮎子はさっきそんなことをいっていたが、その予言は冷酷な現実になって現われたのだ。  しかし、そこによこたわっている黒衣の悪魔は……その男も死んでいることは、筋肉の硬直しかけた状態からあきらかだった。どこにも外傷のないところをみると、どうやら薬をのんだらしい。  それでは幽霊男は最後の一幕をはなばなしく、演出したことをもって、わがこと終われりとばかりに服毒自殺したのであろうか。 「その繃帯をとれ! はやく顔の繃帯をとってみろ!」  等々力警部がだだっ児のように|地《じ》|団《だん》|駄《だ》をふむ。言下に私服のひとりが、黒衣の悪魔の顔から、繃帯をとる。  眼をいからせ、小鼻をひくひくさせながら、呼吸をころして、解かれていく繃帯のあとを視つめていた等々力警部は、すっかり繃帯がとかれたとき、おやというように眼をすぼめた。  |痩《や》せこけて、|蒼《あお》ぐろく|憔悴《しょうすい》した顔、——|削《そ》ぎおとしたように|頬《ほお》がこけて、肉のうすいたかい鼻、少しひらいた唇のあいだからのぞいている鋭い犬歯……それはなんともいいようのないほど、気味のわるい顔だったが、しかし、等々力警部の期待していた、そのひととはまったくちがっていた。  警部はむろん、加納博士を期待していたのだ。 「これはいったい誰なのだ。それじゃ、幽霊男とは加納博士ではなかったのか」  その肩へ金田一耕助が手をかけた。 「警部さん、その男の左手をごらんなさい。左の小指を……ああ、菊池さん」  いつの間にきたのか、そばに立っている菊池陽介をふりかえって、 「あなたも見てください。いつかあなたを誘拐したのは、この男ではなかったですか」 「あのとき、この男は大きな|塵《ちり》よけ眼鏡をかけていたので……顔ははっきり見えませんでしたが……たしかに小指は、こういうふうに欠けていました」  きれぎれにそれだけいうと、菊池陽介はかわいた唇をなめ、それから眼鏡のくもりをぬぐった。 「そ、それじゃ、これは吸血画家の津村一彦だというンですか」 「そうだろうと思います」 「それじゃ、幽霊男は津村一彦だとおっしゃるのか」  金田一耕助はゆっくり首を左右にふって、 「警部さん、気がちがっていたらこんなみごとな、こんな際どい演出は不可能でしょう。津村一彦は幽霊男の|傀《かい》|儡《らい》にすぎなかったのでしょう。幽霊男はこの狂人を、利用するだけ利用すると、生かせておいては後日のさまたげと、あっさり一服盛ったんでしょう」 「そ、それじゃ幽霊男は……?」 「ほかにいるんです。そして、そいつはまだ、この劇場のなかに潜伏しているんです!」  金田一耕助が、じぶんではそのつもりではなかったけれど、思わず芝居気たっぷりに、大見得をきったときである。  にわかに舞台裏が騒々しくなったと思うと、道具方らしいふたりの男が、ひとりの男をまんなかに、肩を組んでやってきた。 「警部さん、警部さん、こいつが……この男が、舞台のうえの|簀《す》の子へあがる階段の下で、ぶっ倒れていたんです。階段をおりようとして、脚を踏みすべらせたらしいんです」  ふたりの男にささえられて、酔っぱらいのように、ふらふらしているのは建部健三である。うちどころが悪かったとみえて、健三はまだ意識がはっきりしないらしい。 「健ちゃん、健ちゃん、どうしたんだ。しっかりしないか」  菊池陽介にはげまされて、健三は眼のふちに、黒いくまの出来た顔をぼんやりあげると、何か言おうとして口をもぐもぐさせたが、そのとたん、等々力警部は全身に、強力な電気でも通じられたようなショックをかんじた。  建部健三の口には歯が三本しかない。|上《うわ》|顎《あご》に前歯が一本、|下《した》|顎《あご》に前歯二本、ただそれだけ。  そして、共栄美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》の支配人、広田圭三の話によると、佐川幽霊男と名のるぶきみな男が、はじめて倶楽部へやってきたとき、そいつには、歯が三本しかなかったというではないか。上顎に前歯が一本、下顎に前歯が二本とただそれだけ……。     劣等コンプレックス  麗人劇場におけるその一夜の出来事ほど、新聞の社会面を|賑《にぎ》わした事件はない。  幽霊男はついに予告どおり実演してみせたのだ。しかも、このうえもなくうつくしく、このうえもなく奇抜に、そして、ひとの意表をついて……。  まず、あの|蝋人形《ろうにんぎょう》の踊りからはじまって、眼もあやな舞台いっぱいにくりひろげられた、西村鮎子の死のダイビング、さらに、吸血画家津村一彦のショッキングな出現と、それだけでも|耳《じ》|目《もく》をうばう話題だのに、さらに、新東京日報社の建部健三が幽霊男であったとは……。  入れ歯を外した健三は、あらためて共栄美術倶楽部の支配人、広田圭三につきあわされた。  広田マネジャーは、まるで化け物でも見るような眼つきで、黒い洞穴のようにぶきみな健三の口もとを見ながら、 「はあ、あの、……あのときの幽霊男の口もとは、たしかに、これとそっくりでした。上顎に一本、下顎に二本と。……わたしは健ちゃん、いえ、あの、このかたがふだん、入れ歯をしていらっしゃるとは、しらなかったもんですから……」  広田マネジャーはふり落つる額の汗をぬぐい、声をふるわせ、さいごにはおいおい泣き出した。  あまり意外な幽霊男の正体に、さすがこすっからい広田マネジャーも、ひどいショックをかんじて、いくらかヒステリー気味になっていたのだろう。  建部健三の環境、行状、経歴があらためて、警察の手によって洗いあげられたが、それによると健三は、大学時代演劇部に属していて、しかも、かなりの名優であったことが判明した。  ことにかれの得意としていたのは|老《ふけ》|役《やく》で、演技も演技だが、その|扮《ふん》|装《そう》は堂に入っていたという。ふつうの役者のように、かれは筆で|皺《しわ》などかかず、パラフィンだのゼラチンだの|石《せっ》|膏《こう》だのを利用して、そばから見ても老人そのままの顔を再現したという。  あの巧妙な扮装技術をもってすれば、幽霊男をつくりあげるなど、なんでもないことであったろうし、だからおれははじめから、幽霊男はあいつにちがいないと|睨《にら》んでいたんだなどと、いまになって、さかしげに公言する男もあった。  さらに、建部健三の日頃の行跡である。  健三はかくべつ腹黒いとか、悪質とかいう人間ではなく、どちらかというと人好きのするほうだが、新聞記者としてはいかにも無能で、社でももてあましぎみだった。それにもかかわらずクビにもならずにつづいていたのは、専務をしている|親《おや》|爺《じ》さんのおかげだった。  同僚たちはみんなかれを|軽《けい》|蔑《べつ》し、馬鹿にしていた。しかし、かれの背後には専務さんの七光りがぶらさがっているので、あからさまに、そういう素振りをみせるわけにはいかなかった。そこで、いわゆる敬して遠ざけるというような態度を、みんなかれに対してとっていた。  当然、かれは面白くなかった。いつの間にやら、社の同僚からはみ出してしまった健三は、じぶんでグループをさがさなければならなかった。  こうして、かれが、接近していったのが、共栄美術倶楽部を|根《ね》|城《じろ》とする猟奇クラブだ。いつかかれは、猟奇クラブの三幹事のひとりにまつりあげられていたが、そこでもかれは、会員たちがほんとうに、自分を尊敬しているのでないことを知っていた。モデルたちでさえ、かれを坊やだの、お坊っちゃんだのとやすっぽくあつかった。  誰にも認められず、誰からも尊敬されないという劣等感、それがつもりつもって不自然に蓄積されると、しだいに危険な感情に移行していくということは、心理学上しられている。不自然に抑圧された劣等感は、いつか不自然に爆発せずにはいられない。  建部健三のばあい、その劣等感が血みどろな幽霊男の、殺人遊戯となって爆発したのだろうと、ある心理学者はいった。  すなわち、ひとに認められたいという願望と、いままでじぶんを馬鹿にし、無視してきた世間にたいする|復讐《ふくしゅう》心が|嵩《こう》じて、あのように凶暴な犯罪のかずかずを、演じさせたのであろうというのである。  それはさておき、逮捕されて以来、健三は頑強に黙秘権を行使していた。  係り検事のいかなる取り調べにたいしても、じぶんは誰も殺さなかった、じぶんは絶対に犯人ではないと主張する以外には、頑として口をわらなかった。  それでいて、内心の苦悩と|煩《はん》|悶《もん》の度が、いかに大きいかは、日ましに|憔悴《しょうすい》していくその顔色でもあきらかだった。間もなくかれはすっかり|枯《こ》|痩《そう》して、眼ばかりギロギロ光らせるようになった。  このままでいくと、発狂するのではないかと思われるくらいだった。  ある日、検事のまえに引き出された健三は、検事のそばにひかえている人物を見て、思わず大きく眼を視張った。それは金田一耕助だった。  金田一耕助はにこにこしながら、 「建部君、まあ、そこへお掛けなさい。今日はひとつ、あなたと|腹《ふく》|蔵《ぞう》なくお話しようと、検事さんの許しをえて、こうしてここへやってきたんですよ」  健三はしかし、ちょっと|眉《まゆ》をあげただけで、素直に|椅《い》|子《す》にかけようとはしなかった。  金田一耕助はしかし、べつに意に介さぬふうで、あいかわらずにこにこしながら、憔悴した健三の顔に眼をやって、 「ねえ、健三君、ぼくがはじめてこの事件に、タッチするようになったときのことを|憶《おぼ》えているでしょう。あれは|伊《い》|豆《ず》の百花園ホテルでしたね」  健三はあいかわらず無言である。しかし、金田一耕助はいさいかまわず、 「あのときぼくは、百花園ホテルでまた何か、起こるのではないかという予感がしたので、ボーイに化けて、あのホテルに入りこんでいたわけです。あれはいささかドン・キホーテでしたけれどね。あっはっは。いや、冗談はさておいて、ところで、ぼくがどうしてこの事件に首をつっこむようになったか、その動機をあなたは御存じですか」  健三はあいかわらず答えない。しかし、金田一耕助はべつに、答えを期待していたわけでもなかったとみえ、 「それはね、あるひとからこの事件、すなわち幽霊男の事件を調査してほしいという、依頼をうけたからなんです。ところでその依頼人ですがね、それは新東京日報社の専務、建部|建人《たつんど》氏、つまりあなたのお父さんなんですよ」  とつぜん、健三は大きく眼を視張った。いまにも目玉がとび出しそうであった。何かいおうとして、唇をわななかせたが、言葉は外に出なかった。検事もはじかれたように耕助のほうをふりかえった。  金田一耕助はその両方にうなずきながら、 「そうです。あなたのお父さんだったんです。お父さんははじめから、共栄美術倶楽部へ現われた佐川幽霊男なる人物が、あなたであろうことを知っていられた。歯のことがありますからね。しかし、あなたが人殺しをするような人物でないことも、お父さんはよく知っていられた。つまり、あなたは特種を|捏《ねつ》|造《ぞう》しようとされたんですね。それによって、日頃じぶんを無能視する同僚たちを、あっといわせようという寸法だったんでしょう。すなわち小林恵子を|西《にし》|荻《おぎ》|窪《くぼ》のアトリエへ呼び出し、眠り薬をかがせたうえ、それをトランク詰めにして、|聚《じゅ》|楽《らく》ホテルへ送る。そいつをあなたがスクープしようという計画だったんですね。だから恵子を殺すつもりは毛頭なく、その証拠には、恵子が窒息してはならぬと、トランクに息抜きの穴がこさえてありましたね。ところが誰かがその計画を察知した。そして、あなたのその計画を、じぶんの血みどろな殺人計画にすりかえたのではないか。……と、いうのがお父さんの御意見で、かくいう金田一耕助も|徹《てっ》|頭《とう》|徹《てつ》|尾《び》、その説に賛成なんです。だから、幽霊男を創造したのは、なるほどあなただったけれど、じっさいに幽霊男として行動し、かずかずの残虐行為を、あえてした人物はほかにあるわけですね」  とつぜん、建部健三が大きな音をたてて、くずれるように椅子に腰をおとした。それからデスクにつっ伏すと、声をあげて泣き出した。それこそ、|堰《せき》をきっておとしたように泣き出したのである。  金田一耕助の眼が、いたましそうにそれを視まもっている。     記者地獄  いちど、感情のしこりがほぐれると、そのあと、告白をひきだすのはそうむつかしいことではなかった。本人としても、いちばんかくしていたかった、痛いところをズバリと指摘されたので、しゃべりやすくなったのだろう。  建部健三は泣くだけ泣くと、涙に洗われたような顔をあげて、ぼつぼつと語りはじめた。  感情の整理がまだよくいきとどいていないので、それはかなり|支《し》|離《り》|滅《めつ》|裂《れつ》な話しぶりだったが、ここには出来るだけ、|整《せい》|頓《とん》してお眼にかけることにしよう。  ……そもそもことの起こりは、ぼくが偶然、吸血画家の津村一彦を発見したことにあるんです。ええ、ぼくはあの男をしっていました。あの男に吸血癖があることをひとから聞いて、あるとき、西荻窪のあのアトリエへ、記事をとりにいったことがあるんです。不幸にしてその記事は、津村夫人の運動で、握りつぶしになりましたが。……ぼくがたまに記事をとると、いつもそんな目にあうンです。 〈こういったとき、健三の眼にはいかにも悲しそうな色がうかんだ〉  ……どこでぼくが津村を発見したか、ここでは省略させてください。あまり話がながくなりますから。とにかく、あまり大きな声ではいえないような場所でした。そのとき、誰も津村を、気ちがいとはしらなかったようです。口数が少ないのと、どことなく陰気なところをのぞいては、常人とたいして変わりはなかったのですから。  ……ぼくは、その津村をあるところへつれていって監禁しました。それというのが、かれの吸血癖をしっていたので、そんな狂人を野放しにしておくことの、危険さを心配したせいもありますが、それよりももっと大きな目的は、なにかセンセーショナルな記事に、したいという野心があったのです。ぼくは……ぼくは……無能な新聞記者であり、父の不肖の子であるこのぼくは、大きな記事に飢えていたのです。 〈建部健三は鼻をつまらせ、そこでちょっと言葉がとぎれた〉  ……津村一彦はたいへんおとなしい、柔順な気ちがいだったので、ぼくのような若僧でも、扱うのにそうむつかしいことはありませんでした。そうして、かれを監禁する一方、ぼくは西荻窪へいって様子をさぐってみたところが、津村の一家があそこを引きはらって、岡山へひきあげたということを知りました。すると、当然、津村は家人の眼をぬすんで、脱走してきたということになります。  ……これだけでも記事になったんです。いいえ、記事にしておけばよかったんです。もし、ぼくが有能な社会部記者で、ぼくの書いた記事が、しょっちゅう社会面をかざっていたら、ぼくはあっさりこれを記事にしたでしょう。ところが、残念ながらぼくのとった記事が、うちの紙面にのったことはいちどもないんです。書けども、書けども、ぼくの記事は握りつぶされてしまうンです。根がぼんくらなものですから。  ……いつかぼくは、たまたまじぶんのふところへとびこんできたこの材料を、うんと大きな記事にしてみせようという、野心をいだくにいたりました。すなわち事件のデッチ上げです。それこそ、新聞記者として、もっとも恥ずべき行為なんですけれど、当時、ぼくは記事に飢えていたんです。 〈建部健三はそこで|愁然《しゅうぜん》と首うなだれた〉  ……それにはお|誂《あつら》えむきの条件がそろっています。ゆくえ不明の狂人画家、しかも、そいつは吸血癖をもっている。……もっともそれは、ひとが恐れるほど危険なものではなかったのですが、吸血癖はやはり吸血癖です。  ……それともうひとつ、ぼくの心を強くひきつけたのは、西荻窪にあるあのアトリエの、いかにも陰惨な犯罪でも起こりそうな雰囲気です。ゆくえをくらましている吸血画家とあのアトリエ……、そうだ、これをネタにして、ひとつうんとセンセーショナルな事件をデッチあげてやろう。そして、それによってじぶんを無能呼ばわりする、世間と同僚の鼻をあかしてやろう。……と、いうのが、そもそも幽霊男誕生の動機だったんです。  ……幽霊男という名まえは、フランスの探偵小説ファントマから借りてきました。ファントマ……すなわち、幻とか幽霊とかいう意味ですね。幽霊だけではつまらないので、幽霊男として、それをユレオともじってみたんです。  ……それからあとは、あなたがたも御存じのとおりです。  ……学生時代、演劇部に席をおいていたので、|扮《ふん》|装《そう》術には相当自信があったんですが、あの扮装にはずいぶん苦心をしたもんです。全然知らぬ人間ならともかく、熟知の連中をあざむくのですからね。  ……ぼくの計画としては幽霊男となって、共栄美術倶楽部へ顔を出す。そして、モデルをひとり契約する。一方、聚楽ホテルへおもむいて、翌日の部屋を予約しておく。モデルがアトリエへやってきたら、さんざん怖がらせたあげく、麻睡剤で眠らせて、これをトランクにつめて聚楽ホテルへ送りこむ。金田一先生もさっき指摘されたとおり、恵子が窒息してはたいへんなので、トランクにはところどころ穴をあけておきました。  ……そうしておいて、じぶんはまずあのアトリエをつきとめ、運送屋から聚楽ホテルとたぐっていき、そこにトランクづめになっている恵子を発見し、彼女の口から、語られるであろう、奇怪な幽霊男の吸血犯罪を暴露して、これをスクープするという段取りだったんです。  ……計画は万事うまく運びました。ただひとつ、恵子の弟の浩吉が尾行していたのが意外でしたが、これもなんなく眠らせたので、べつに障害になるとは思いませんでした。  ……それだのにそれだのに……最後のどたん場になって、恵子が浴槽で殺されているのを発見したとき。……  ……しかも、それから間もなく、津村一彦がぼくのもとから|失《しっ》|踪《そう》して、どうやら犯人に利用されているらしいと知ったとき。……  ……|呪《のろ》われたのです。ぼくはじぶんの計画に呪われたのです。それも、当然かもしれません。天に|唾《つば》するものは、みずから唾をうくといいますが、ぼくはまんまと唾をうけたのです。しかも血みどろの唾を。……  以上が建部健三の告白の大要だった。  話が終わりにちかづくにしたがって、健三の語気はしだいに乱れ、のろくなり、話しおわったとき、かれは|茫《ぼう》|然《ぜん》とした眼つきになり、まるで放心したような顔色だった。  金田一耕助はしばらくだまってかんがえていたが、やがて静かに体を乗りだすと、 「健三さんにもうひとつ、お|訊《たず》ねしたいことがあるんですがね」 「…………?」  健三は光をうしなった白い眼を、ぼんやりと耕助にむけている。 「あなたが恵子をトランクづめにして、西荻窪のアトリエから送り出してから、その晩、加納博士やなんかといっしょに、聚楽ホテルへいくまでには、相当、時間がありましたね。その間恵子を、トランクづめにしたままでおいとくということに、あなたは良心の|呵責《かしゃく》を感じませんでしたか。じじつは、恵子はそのまえにトランクからひきずり出されて、殺されていたんですけれど。……」 「ああ、そのこと。……」  健三の眼にちょっと|活《いき》|々《いき》とした光がもどると、 「ぼくの計画としては、トランクが聚楽ホテルへつくころを見計らって、ぼくはもう一度、幽霊男の扮装で、ホテルへいくつもりだったんです。そして、恵子をトランクから出し、ベッドへ寝かせておいてやるつもりでした。ところがそれが出来なくなったんです」 「出来なくなった? どうしてですか」 「あの部屋の|鍵《かぎ》をなくしたんです」 「鍵をなくした……?」  耕助はキラリと眼を光らせると、 「どこでなくしたかわかりませんか」 「あとから考えると、たぶん、あのときだろうと思うんです。聚楽ホテルへ部屋を予約にいったかえり、万事うまくいったので、つい|有頂天《うちょうてん》になって、聖堂のそばのうす暗がりで、ぼくは女を脅かしたんです。女はキャッと叫んで逃げ出しましたが、そのとき、うしろから来た男が、おいとかなんとかいいながら、ぼくの腕をつかまえました。そいつもしかし、ぼくの顔を見ると、ギョッとしたように逃げ出したんですが、そのとき、たしかにそいつの手が、ぼくのポケットにさわったのをおぼえています。あのとき鍵をすられたんじゃないか。……だから、ひょっとするとあの男、ぼくを聚楽ホテルから、尾行してきたのではないかと思うんです」  金田一耕助はうれしそうに、ひゅうっとひと声、口笛を吹きならすと、 「いや、ありがとうございました」  と、ていねいにもじゃもじゃ頭をさげた。    第七章 わが傑作  その夜。……  東京の……どこだかわからないけれど、とにかく東京のいっかくの、とある家のなかである。窓という窓にシェードをおろした、暗い部屋のなかにただひとつ、大きな電気スタンドが床に立っている。  その電気スタンドのすぐそばに、居心地のよさそうなソファがおいてあり、そのソファにひとりの男がよりかかっている。  派手なスモーキング・ガウンを着て、足にはスリッパをひっかけている。  ところでその男の顔だが、あいにくなことには、顔の部分だけ電気スタンドの光の外になっているので、はっきりとはわからない。しかし、暗がりのなかに、なにやらほの白いものがうごめいているところをみると、ひょっとすると、その男、顔じゅうに|繃《ほう》|帯《たい》をしているのではないか。  さて、その男の|膝《ひざ》のうえには、大きなアルバムがおいてある。そのアルバムの表紙には、 [#ここから2字下げ] ヌード芸術       わが傑作 [#ここで字下げ終わり]  と、いう文字が、|唐《から》|草《くさ》模様をあしらった、装飾文字で書いてある。  ソファに寝そべっていた男は、しばらくすると、やおら起きなおった。起きなおったので、顔の部分が光のなかへ入ってきたが、やっぱりその男、顔じゅうに繃帯をしているのである。  繃帯のあいだから、マドロス・パイプのつき出しているのが、いささか|滑《こっ》|稽《けい》である。  繃帯の男はうやうやしく、アルバムの表紙をひらいた。と、第一ページに|貼《は》りつけてあるのは、大きく引きのばされたヌード写真で、その下には、 「浴槽の美女」  と、書いてある。  いうまでもなく、第一の犠牲者、小林恵子の死体がモデルだが、表紙に、 「わが傑作」  と自讃してあるだけあって、いかにもうつくしくとれている。浴槽と裸女の構図もよく、影と光の交錯も効果的である。 「うっふっふ、われながらうまいもんだて」  と、悦にいった幽霊男が、ページをかえすと、そこには咲き乱れた花のなかから、ニョッキリつき出た二本の脚。題して、 「花園のグロテスク」  じっさい、うまい構図である。グロテスクどころか、|匂《にお》うようなエロチズムだ。  さて、第三ページは、 「|沐浴《ゆ あ み》する女」  いうまでもなく、第二第三は都築貞子だ。  そのつぎには、 「チェック模様のアラベスク」  と題して、全裸のうえにチェックのオーヴァをひっかけた、武智マリの写真がある。黒いサングラスをかけているのが効果的だ。  さて、そのつぎはいうまでもなく、宮川美津子をモデルにした写真で、虎の毛皮のうえにうつぶせになっている、女の|臀《でん》|部《ぶ》の曲線がうつくしい。さいごはいうまでもなく、 「ダイビングする女」  周囲に水玉をあしらって、まったく|絢《けん》|爛《らん》たるものである。  それらの写真には、いちいち、使用カメラ、フィルム、絞り、露出などが記入してあって、なかなか研究的である。 「うっふっふ、われながらうまいもんだて。アンドレ・ド・ディーンズだって、こんな作品は出来まいよ」  アンドレ・ド・ディーンズというのは、ヌード写真の大家らしい。  幽霊男は悦にいって、なんどもなんどもアルバムをひっくりかえし、 「わが傑作」  に見とれていたが、そのうちに、アルバムにはさんであった一枚の写真が、バサリと床のうえに落ちた。  幽霊男はその写真をひろいあげると、しばらく眼じろぎもせず視つめていたが、やがて気味悪いうすら笑いをうかべてこう|呟《つぶや》いた。 「おい、べっぴんさん、さかしらだった賢婦人、こんどはおまえさんの番だからな。おまえさんのヌード写真を、このアルバムに加えたら、それでおれの芸術は完成するんだ。それも遠いことではあるまいよ。うっふっふ、うっふっふ——」  幽霊男の手にしている写真の主は、なんとマダムXではないか。     蝋人形に絡む謎  つぎからつぎへとヌード・モデルを殺していった、|稀《き》|代《だい》の殺人|淫《いん》|楽《らく》|者《しゃ》、幽霊男とは新東京日報社の建部健三だったのだろうか。  しかし、健三の告白によると、なるほど、幽霊男なる人物を創造したのはじぶんだけれど、じっさいに幽霊男となって、人殺しをしたのはじぶんではないという。  かれはただ、記事を|捏《ねつ》|造《ぞう》するために、共栄美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》のモデルのひとりを利用したが、じっさいにその女を殺すつもりはなく、だから、だれかがじぶんの計画を察知して、たくみにそれを、血みどろな殺人計画に、すりかえたのにちがいないと主張するのだ。  健三のこういう告白があった翌日、警視庁の捜査一課、等々力警部の担当する、第五調べ室では、等々力警部と金田一耕助が、むつかしい顔をしてむかいあっていた。 「それじゃ金田一さんは建部健三の告白を、そのまま、|鵜《う》|呑《の》みにしてよいと思ってらっしゃるんですか」  等々力警部はひどく不機嫌である。  建部健三を逮捕してから、警部は部下を督励して、|傍証《ぼうしょう》かために狂奔していた。そして、それもあらかたかたまっているのである。  健三が吸血画家の津村一彦を、監禁していた場所も発見されたし、最初の事件のおこるすこしまえ、健三が西荻窪のアトリエの付近へ、出没していることも確認されている。  だから、最初の動機がなんであったにせよ、小林恵子からはじまるあの一連の殺人事件の犯人が、建部健三であろうということについては、もう一点の疑惑ももっていなかった。  それだけに、容疑者の御都合のいい告白によって、事件を根本からひっくりかえされるということは、警部にとっては耐えられぬ|想《おも》いがあったにちがいない。  等々力警部はいらいらと、部屋のなかをいきつもどりつしながら、 「ねえ、金田一さん、なるほど、最初の動機は記事の捏造にあったかもしれない。しかし、それが|嵩《こう》じて、じっさいに殺人に手を染めるということも、考えられないことではない。げんにあんたもいつか加納博士にむかって、猟奇だの、現実逃避だのということは、それが嵩じるととんでもないことをひきおこすばあいがあると、いってたじゃありませんか」  金田一耕助はものうげにうなずいて、 「そう、そんなことをいったことがありましたね。しかも、そのことばはいまになっても、間違いじゃないと思うんです」  金田一耕助は、等々力警部がなにかいおうとするのを、かるくおさえて、 「いや、こういったからって、建部健三が犯人だというんじゃありませんよ。こんどのこの一連の、狂ったような殺人事件ね。それにはほかにどんな動機があるにしろ、また犯人が何者にせよ、|刺《し》|戟《げき》から刺戟へとおいもとめて、|倦《う》みつかれ、|歪《ゆが》み、ただれた犯人の心理作用が、大いに影響していると思うんです」  等々力警部はさぐるように、金田一耕助の顔を見ながら、 「ねえ、金田一さん、建部健三が犯人でないとすると、じゃ、いったい、誰が真実の幽霊男なんです。やはり加納博士だとおっしゃるんですか」  金田一耕助はそれにこたえず、ぐったりと|椅《い》|子《す》に背をもたせて、じぶんの|爪《つま》|先《さき》を視つめている。  等々力警部はすこしいらいらした語調で、 「加納博士のことについちゃ、わたしにもまだはっきり納得できぬことがある。建部健三が逮捕されたということは、大きく新聞に出ているのに、あの男はなぜ出てこないのか。なぜまだかくれているのか。……それに、あの男とマダムのかくれ家で、西村鮎子が見たという、|蝋人形《ろうにんぎょう》のこともあるし。……」 「いや、その蝋人形のことなら……」  と、金田一耕助は急に顔をあげて、 「あれは幽霊男の注文によって、河野十吉がつくった人形じゃないと思うんです」  等々力警部はギョッとしたような顔をして、金田一耕助の様子を見なおす。 「金田一さん、そ、それはどういう意味ですか」 「どういう意味って、ぼくはふたつの理由から、そういうことがいえると思うんです。幽霊男は人形つくりの河野十吉に注文して、西村鮎子そっくりの人形をつくらせた。ところが西村鮎子が誘拐されて、加納博士とマダムXのかくれ家へおもむいてみると、そこにじぶんとそっくりの蝋人形があった。だから、その蝋人形と幽霊男の注文によってつくられた蝋人形と、同じものだと思われがちだが、かならずしもそれは、同じ人形である必要はない。……」 「ど、どうしてですか。なぜ……」 「だって、警部さん、マダムXのかくれ家には、人形つくりの河野十吉もいっしょにいるんですよ。かれがまた改めて、マダムXの注文で、同じ人形をつくったのかもしれない」  等々力警部はまたギョッと、金田一耕助の顔を見なおした。 「しかし、マダムXがどうしてまた……?」 「その理由はぼくにもまだわかりません。しかし、マダムXは幽霊男に挑戦しようとしているんじゃないか。われわれとはべつに、幽霊男とたたかおうとしているんじゃないンでしょうかねえ」  金田一耕助はなやましげな眼を、等々力警部からそらして、また、じぶんの爪先におとした。それからほっと|溜《た》め息をつくと、 「それにねえ、警部さん、マダムXのかくれ家で、西村鮎子の見た人形と、幽霊男の注文によってつくられた人形が、べつのものじゃないかとぼくが考えるのには、もうひとつの理由があるんです」 「もうひとつの理由とは……?」 「それは、あの蝋人形が麗人劇場へはこびこまれた時期にあるんです。ねえ、警部さん、あの人形はいつどうして、麗人劇場へはこびこまれたんです」  警部は無言で、あなのあくほど、金田一耕助の顔を見ている。それから|小《こ》|鬢《びん》をかき、|顎《あご》をなでながら、 「いや、それはわたしも不思議に思っているんだが……」 「こんどの事件で蝋人形が使われるだろうということは、幽霊男の宣言であらかじめわかっていたことですね。それだけに警部さんも麗人劇場にたいしてげんじゅうに注意してらっしゃいましたね。それにもかかわらず蝋人形が、どうして麗人劇場の楽屋へまぎれこむことができたか。……これが津村一彦のような人間ならば、なんとか監視の眼をぬすんで、楽屋へまぎれこむこともできます。しかし、相手は人形なんですよ。じぶんで行動することはできない。だれかがはこんでやらねばならぬ。しかし、あのとおり等身大の人形ですから、こっそり持ちこむなんて不可能ですし、じじつ麗人劇場でも、いつあの人形がはこびこまれたのか、ぜったいに心当たりがないといっているでしょう。それにもかかわらず、人形はあそこにあった。では、いつどのようにしてはこびこまれたか。……」 「金田一さん、あんたはそれをしってるのかね。いつ、どのようにしてはこびこまれたか。……」  金田一耕助はものうげにうなずくと、とつぜん、さっと怒りの色が|瞼《まぶた》をそめた。 「しっています。あとになって気がついたんだが。あの人形はじつにぼくの眼のまえで、堂々とはこびこまれたんですよ」 「それはいつ……?」 「あの擬装火事騒ぎのあったとき、すなわち、河野十吉が西村鮎子を誘拐した晩……」  金田一耕助はそれだけいうと、奥歯をかむような音をさせ、ぴったりと口をつぐんだ。     かくれ|簑《みの》 「金田一さん、金田一さん、あなたはしってるんですね。だれがどのようにして、あの蝋人形をはこびこんだか。……」  金田一耕助はものうげな眼をしてうなずくと、 「ねえ、警部さん、人間の神経というものはあわれなもんです。どんなに八方に気をくばっているつもりでも、ある重大なことに気をとられていると、つい、ほかのことは見おとしてしまうんです。ぼくはまんまとその盲点をつかれたんです」  金田一耕助は|自嘲《じちょう》するように、ほろにがい微笑をうかべると、 「あのとき、ぼくは思いがけない突発事故に、つい気もそぞろになっていた。建部健三とふたりで、夢中になって西村鮎子をさがしていたんですが、そのとき、うすぐらい階段のしたで、ある男に出会ったんです。その男ははだかの女を抱いていて、この娘、脚をくじいて泣いてるんだけど……と、いうようなことをいってました。そのときぼくに、もうすこし注意ぶかく、抱かれている女を、観察するよゆうがあればよかったんですが……」  等々力警部はとつぜん、大きく|眉《まゆ》をつりあげた。  警部にもその男がだれだが見当がついたのだ。しばらく呼吸をつめ、眼じろぎもせずに、金田一耕助をにらみすえていたが、急に額の血管が大きく|怒張《どちょう》してきたかと思うと、 「き、金田一さん、そ、そ、それじゃあの男が……」  金田一耕助はまたものうげにうなずくと、 「そうです、そうです。警部さん、あれはじつにうまいチャンスでした。だれもかれも火事騒ぎに|動《どう》|顛《てん》して、右往左往しているんです。裸のまま楽屋口からとびだした娘もありました。なかにはほんとに、脚をくじいた娘もあったでしょう。そういう騒ぎを利用して、あいつはゆうゆうと人形を抱いて、楽屋口からはいってきたんです。楽屋口さえ突破すれば、あとはなんでもありません。大道具小道具の、雑然としている舞台裏のことだから、人形をかくしておく場所は、いくらでもあったでしょう。あいつはそうして、まんまとぼくの鼻さきで、人形をはこびこむことに成功したんですよ。腹のなかではさぞぼくのことを、とんまなやつだと|嗤《わら》っていたでしょうねえ」  金田一耕助はそのあとへ、かわいたような笑い声をつけくわえた。耕助としてみれば、くやしさに、髪の毛もかきむしりたいくらいの思いであったろう。  等々力警部は|茫《ぼう》|然《ぜん》として、金田一耕助の顔を視つめている。あまりはげしいショックに、しばらく思考の流れが停止したようなかんじだった。 「あいつが……あの男が……」  うわごとのように|呟《つぶや》きながら、警部はまた部屋のなかをいきつもどりつしはじめたが、急にはたと立ちどまると、耕助のほうをふりかえって、 「しかし、金田一さん、そんなはずはない。ぜったいにそんなはずはありませんよ」  と、おこったようなはげしい口調である。 「どうしてですか、警部さん」  金田一耕助はあいかわらず、ものうげな、のろのろとしたくちぶりだった。 「だって、それじゃ、伊豆の百花園ホテルにおける都築貞子殺しはどう説明するんです。あいつは……あの男は都築貞子とわかれたのち、ずっと西村鮎子といっしょだった。このことは鮎子のみならず、ほかにも証人がたくさんある。それから武智マリといっしょに、離れ小島へ貞子をさがしにいったとき、貞子はすでに、花園のなかで殺されていた。……」 「花園のなかで殺されていた……?」  金田一耕助はおうむがえしにたずねると、 「だれがそんなことをいったんです」 「だれが……?」 「あの男じしんがいっただけじゃありませんか。武智マリは遠くのほうから、二本の脚を見ただけなんです。それが都築貞子であったかどうか、生きた足か死んだ足、いや、人間の脚かそれとも|蝋《ろう》でつくった脚だったか、……武智マリにはわかるはずがない。マリはただ、あいつのことばをそのまま信じて、われわれに急をつげにきたんです」  警部はまた大きく|眉《まゆ》をつりあげた。 「金田一さん、そ、それじゃ武智マリの見たのは、蝋人形の脚だったとおっしゃるんですか」 「そうじゃないかと思うんです。あの事件の際、幽霊男に共犯者があったことは御存じですね。その共犯者がスーツ・ケースのなかに、人形の脚を二本つめてきた。そして、ああいう舞台装置をつくっておいた。では、そのあいだ都築貞子はどうしていたかというと、おそらくあの離れ小島のどこかで眠っていたんでしょう。あの朝、貞子が気分がわるそうだったということは、みんな意見が一致してますね。だから、あいつはわかれるときに、なんかの口実をもうけて、貞子にねむり薬をあたえたんでしょう。こうしてあいつは、まんまとアリバイをつくりあげ、武智マリがすでに貞子が殺されているものと信じきって、われわれに急をつげにきたあとで、ねむっている都築貞子を殺して解体し、その脚を武智マリが見た人形の脚と、おなじポーズに組立てておいたんです。むろんアリバイ形成につかった人形の脚は、共犯者がスーツ・ケースにつめて持ちかえる……」  あまりのことに警部は口もきけない。  金田一耕助のことばが真実とすれば、なんというすばらしいトリックだろう。なんというズバ抜けた|欺《ぎ》|瞞《まん》であろう。警部はほとんどいうことばを知らなかった。 「しかし、ねえ、警部さん」  と金田一耕助は|溜《た》め息をついて、 「あまり計画した犯罪は、かえってボロが出やすいもんです。いきずりの犯罪はなかなか発覚しにくいが、計画的な犯罪は、いちど|端《たん》|緒《しょ》をつかまれると、つぎからつぎへとほぐれていくということを、警部さんも御存じでしょう。あのときの幽霊男のミステークは、武智マリがどの路をとおって、ホテルへかえったかということに、気がつかなかったことにあるんです」  警部は大きく眼を視張った。こんどは耕助のいう意味が、どうやらわかったらしいのである。 「武智マリは路にまよってあの池のそばをとおった。そのとき、ハンケチをとばしたので、それを拾おうとして池のふちにしゃがんだとき、コンパクトを池の中におとしてしまった。と、いうことはそのときにはあの池のなかに、|死《し》|骸《がい》なんかなかったということを示しているのじゃないか。あそこにあんな死骸があったら、マリにはとてもそんなよゆうはなかったろうし、またわれわれのところへ急をつげにきたとき、すぐそのことをいうはずです。ところがあいつは、マリがあの池のはたを、とおったとは知らなかったものだから、そのあとで、ああして|沐浴《ゆ あ み》する女のポーズをつくりあげた。しかも、そのあとでマリがあそこを通ったということをしったものだから、生かしておくわけにはいかなかったんです」  金田一耕助はまたかわいた笑いをあげると、 「あのとき、ぼくはさかしらだって、マリは、いったいあの池のなかになにを見たんだろうと、いったのをおぼえていますが、いまから考えるとそのはんたいに、マリは何もあの池のなかに、見なかったから殺されたんですね」  警部はしばらく、腹立たしそうに金田一耕助を|睨《にら》みすえながら、|小《こ》|鬢《びん》をガリガリかいていたが、 「ところで、金田一さん、あの事件における共犯者を、あんたはだれだと考えるんですか。やはりあの気ちがいの津村一彦……?」 「いいや、おそらくそうじゃありますまい。あのチェックの男というのは、おそらく、宮川美津子だったろうと思うンです」 「宮川美津子……?」 「そうです、そうです。警部さん、ほかの女たちは幽霊男の手におちた、最初のチャンスに殺されているのに宮川美津子だけはいったん誘拐されながら、最初のチャンスでは助かっているでしょう。あのとき、ふたりのあいだに、妥協が成立したんじゃないかと思うンです」 「妥協というと……」 「建部健三のことで、美津子が西村鮎子に|嫉《しっ》|妬《と》していたということは、警部さんも御存じでしょう。だから美津子は、百花園ホテルで殺されるのは、鮎子だとばかり信じて片棒をかついだのでしょう。幽霊男にとっちゃ、しかし、どっちだっておなじことだったんでしょうね。どうせ、みんな殺す気なんだから。……」  金田一耕助はそこで急に身ぶるいをすると、 「ねえ、警部さん、あいつがかくも大胆不敵にふるまえたというのも、じぶんがかくれ|簑《みの》のなかにいるということをしってたからです」 「かくれ簑というと……?」 「警部さん、建部健三が幽霊男の|扮《ふん》|装《そう》で、共栄美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》へあらわれたとき、あいつはその場にいたんですよ。だから、幽霊男はぜったいに、あいつではないということになりますね。建部健三が白状しないかぎりは。……あいつはそれをしっていて、それをかくれ簑に利用したんです。どんなことをやらかしても、ひとつひとつの事件でヘマをやらないかぎり、そのかくれ簑のなかにかくれておれると思ったんです。そのことと、|刺《し》|戟《げき》に|倦《う》みただれた神経と、おそらくはもうひとつ、加納博士にたいする|復讐心《ふくしゅうしん》から、こんな大それたことをやらかしたんだろうと思うンです」 「加納博士にたいする復讐……」 「ええ、そう、マダムXに関することでね」 「金田一さん!」  等々力警部はとつぜん、部屋のなかで棒立ちになった。 「あんたはマダムXを知ってるンですか」 「ええ、知ってます。やっと最近つきとめたんです」 「誰ですか。マダムXというのは……?」  警部ははげしくせきこんだが、ちょうどそのとき、卓上電話のベルがけたたましく鳴りだした。等々力警部はいまいましそうに受話器をとりあげて、ふたこと三こと話していたが、金田一耕助のほうへふりかえると、 「金田一さん、あんたに電話。だれだか名のらないんだが……」  金田一耕助の顔色がさっとかわった。いそいで受話器をとりあげると、しがみつくようにして、しばらく話をきいていたが、 「そして、そのうち、|今《いま》|戸《ど》|河《か》|岸《し》じゃないんだね。それよりずっと下流の……矢の倉だね。やっぱり|隅《すみ》|田《だ》|川《がわ》に面して……よし、すぐいく。君は表に待っていてくれたまえ」  金田一耕助はガチャンとはげしい音をさせて受話器をおくと、ギラギラと興奮にふるえる眼を警部にむけて、 「警部さん、警部さん、大急ぎ、大急ぎ、部下のひとを召集してください。どうやらあいつを追いつめたらしいんだが……」 「金田一さん、金田一さん、いまの電話は……?」 「人形つくりの河野十吉」  警視庁の捜査一課は、たちまち蜂の巣をついたようなさわぎになった。     |歪《ゆが》んだ三角  ちかごろは銀座も表通りより、それにクロスするたての通りへ繁栄がうつりぎみで、気のきいた高級な店は、かえってそのほうに多くなっている。  並木通りにある、ミモザという婦人服飾店などもそのひとつで、この店は眼玉のとびだすほど、高価なのでも有名だが、そのかわり、デザインが|斬《ざん》|新《しん》で、仕事がていねいなのでしられており、銀座の流行は、この店からうまれるといわれるくらいである。  このミモザの女のあるじは三橋絹子といって、斜陽族のひとりである。彼女の父は某大財閥の重役だったが、戦後パージでひっそりしているうちに|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》でなくなった。  絹子はいちど結婚したが、|良人《お っ と》とうまがあわなくて離婚した。そして、現在のところへ店を出したのだが、そのまえから、彼女はデザイナーとして、相当世間にしられていた。そのうえに、絹子は経営の才もあるとみえて、ミモザはなかなか|繁昌《はんじょう》している。  それには絹子の|美《び》|貌《ぼう》も大いにあずかって力があるらしく、ここに出入りするわかい婦人は、みんなこのうつくしい女主人に、チャームされるのである。美貌と才気にめぐまれ、しかもゆたかな財力のなかにそだった彼女は、逆境におちても、それを切り抜けていく勇気と才覚を持っていて、斜陽族のなかでは成功者のひとりにかぞえられている。  ミモザは五時には閉店する。そして、六時になると絹子は、さっと化粧をあらためて、みずから自家用車を運転して、青山にあるじぶんの家へかえっていく。  きょうも絹子は店のよこにパークしている、自動車の運転台にとびのると、みずからハンドルをあやつって走り出したが、ものの百メートルもいかぬうちに、のけぞるばかりにおどろいた。あまりおどろいたので、あやうく運転をあやまって、|路《ろ》|傍《ぼう》の電柱に自動車をぶっつけるところだった。  だれもいるはずのないうしろの座席から、むくむくと男がひとり起きあがってきたからだ。バックミラーのなかにその男の顔を認めたとたん、絹子の全身を、毒虫にでもさされたような|悪《お》|寒《かん》が走った。  男はくろい、大きなめがねをかけているけれど、まぎれもない、菊池陽介である。 「絹子、しばらくだったね」  菊池陽介が座席から身をのりだすと、|両肱《りょうひじ》を運転台の背にかけて、にやにやと絹子の横顔をのぞきこむ。その呼吸が|頬《ほお》にかかるのを感じたとき、絹子はまたこのうえもない嫌悪のために、毒虫にさされたようにふるえあがった。 「おい、絹子、なぜ返事をしないんだい。久しぶりにあったんだ。返事くらいしてもよさそうなもんじゃないか」  あいかわらずにやにやしながら、菊池は右手で小型のピストルをおもちゃにしている。絹子の面上をまたさっと、嫌悪のいろがかすめて走った。 「わたしあなたに、絹子などとなれなれしく呼びすてにされるおぼえはございません」 「あっはっは」  菊池はどくどくしく笑うと、 「別れてしまえばあかの他人というわけだね。いや、これは失礼いたしました。それじゃマダムX、その後、御機嫌いかがでございますか」  マダムXとよばれても、絹子は|睫《まつ》|毛《げ》ひとすじ動かさなかった。それくらいのこと、相手がしってるだろうことは、絹子も承知のうえなのである。彼女は瞳をきっと前方にすえたまま、無言で自動車を走らせている。青白い絶望感と、紫色の怒りが交錯して、端麗な彼女の美しさを、いっそうきわだったものにする。  かつてはこれがじぶんの女だったのだ。夜毎腕のなかに抱きしめて、思う存分、その豊麗な肉体から、甘美な夢をむさぼってきた女なのだ。しかも、そのころからみると、女はいっそう美しく、|妖《よう》|艶《えん》にさえなっている。  菊池はごくりと|生《なま》|唾《つば》をのみくだした。 「おう、絹子、いや、マダムX、いったい何をかんがえているんだね。おれをこのまま警察へつれていこうとでも思っているのかね」 「いいえ」  絹子は落ち着きはらった声で、 「いっそこのまま、河へでもとびこもうかと思ってるんです。ふたりとも死んでしまえば、恥も不名誉も消えてなくなる。……」 「あっはっは」  菊池はまたどくどくしい声で笑うと、 「おれと心中してくれるとはまた親切な。なんならそうねがってもかまわないんだが、しかし、そうなると、君の|可愛《か わ い》い三ぶちゃんが、|餓《が》|死《し》するよりほかなくなるだろうよ」  そのとたん、絹子はまたハンドルをとりそこなって、自動車があやうくスリップする。 「悪党!」  絹子はやっとハンドルを取りなおすと、 「あなたはあのひとをどうしたんです」  絹子の面上をおおう、いたいたしいまでの懸念のいろをみると、とっくにこの女を、あきらめたつもりでいた菊池の胸にも、いまさらのようにはげしい|嫉《しっ》|妬《と》がこみあげてくる。 「あんな単純な男をだますのは、赤ん坊の手をねじるより容易なことだ。マダムXが自動車事故で|怪《け》|我《が》をして、あるところへかつぎこまれたと使いを出すと、やっこさん、あたふたとしてやって来たぜ」 「そして、そして、あなたはそれをどうしたんです。まさか殺しは……?」 「いいや、殺しゃしないさ。まだ。……ただ、しばりあげて、猿ぐつわをはめて、ころがしてあるだけだ。だから君がおれを道づれにして、いっしょに死んでくれるというのはありがたいが、そうなるとあの|爺《じい》さん、ひぼしになって死ぬばかりだということさ。あっはっは」  絹子はきっと血の出るほども唇をかんでいたが、やがてまたしずかな声で、 「菊池さん、あたしの負けのようですわね。どちらへ、くるまをやったらよろしいのでしょうか」  菊池の胸をまたキリキリと、たえがたい嫉妬の|想《おも》いがかみくだく。 「絹子! おまえはあんな単純な男のどこがいいんだ!」 「あたしはあなたのように影のある、策の多いひとがきらいなんです」 「それであいつと通じたんだな」  さすがに絹子も|蒼《あお》ざめた。 「たとえ名儀だけにしろ、まだあなたの妻であるじぶんから、あのひとと交渉を持ったのはあたしが悪かったんです。しかし、あのひとはあたしが誰だかしらなかった。いいえ、いまでもあのひとは、あなたの妻だった女だとはしらないんです」 「おれとわかれてから、おまえはずっとあの男と交渉をつづけていたのか」 「いいえ、それはちがいます。あなたと別れると同時に、あのひととも別れたんです。あなたが|嗅《か》ぎつけたら、きっとあのひとに|復讐《ふくしゅう》するだろうと思ったから」 「しかし、いま、いっしょにいるじゃないか」 「それはあたしがだれよりも、あなたというひとをしってるからです。|聚《じゅ》|楽《らく》ホテルで最初の事件がおこったとき、関係者のなかに、あなたの名前とあのひとの名前が出ていました。そのせつな、あなたの計画をしったんです。あなたがあのひとに復讐しようとしているのだと……あなたのような腹ぐろいひとにかかったら、あんなこどものようなひと、ひとたまりもありません。と、いってあたしにはまさか、あなたを告発する勇気はありませんでしたし、また、証拠もなかったんです」 「それじゃ、おまえはいまでもあの男に|惚《ほ》れてるんだな」 「もちろん。それだからこそ、あのひとのためを思って、いちじ身をひいたんですし、またあのひとが、あなたの策略におちそうになったとき、救い出して、身をかくさせたんです」  菊池陽介の顔にめらめらと、青白い怒りと嫉妬のほのおがもえあがる。しかし、かれはやっとそれをおさえると、わざとのろのろとしたものうげな声で、 「西村鮎子を誘拐しようとしたのは、どういうわけだね」 「もちろん、あなたの|毒《どく》|牙《が》から守ってあげようと思ったからです。そのことをもっとはやく言ってあげればよかったんですけれど、そのまえにあのひとが誤解して、逃げだしてしまったものだから……」 「おまえたちのかくれ家にも、西村鮎子とそっくりの蝋人形があったらしいが、あれはどういうわけだね」 「ああ、あれ……あれはあなたのほうでもああいう人形をつくって、鮎子さんをなんとかしようという|肚《はら》らしいから、こっちでもおなじような人形をつくっておいて、なんとかして、あなたの裏をかいてあげようと思っていたんです。あたしはあなたを告発したくなかった。だから、あなたに挑戦して、なんとかしてあなたを自滅させるような方向へもっていきたかったんです。でも、結局、あたしたちの負けね」  淡々と語る三橋絹子の調子には、なんの感動もあらわれていなかった。菊池陽介という人間を、しりすぎるほどしっている彼女は、つかまったら最後だと、かねて覚悟はしているのである。 「よし、それでわかった。じゃ、矢の倉までやりたまえ」  菊池陽介のその声には、日ごろのかれとはまったくちがった、蛇のようなつめたさと残忍さがこもっている。  菊池陽介と三橋絹子、それに加納三作と、このゆがんだ三角関係のなかにこそ、あの血みどろな連続殺人事件の種子が|胚《はい》|胎《たい》していたのだ。     |馬鞭《むち》  それからまもなく、絹子が自動車をのりつけた矢の倉の家こそ、いつか宮川美津子と小林浩吉が、津村一彦の運転する自動車で、つれこまれた家である。その家は加納博士とマダムXが|逢《あい》|引《び》きに使っていた、|今《いま》|戸《ど》|河《か》|岸《し》の家とかくべつ似ているわけではなかったが、洋館の二階だてで、そのわきにギャレージがあるという点では共通している。  そのギャレージへ車を入れると、絹子は陽介につれられて、玄関のなかへ入っていった。ピストルでおどかされるまでもなく、彼女はじたばた悪あがきする気はなかった。それは彼女の趣味にないことであり、気位がゆるさなかった。と、同時に愛する三ぶの身のうえが案じられるのである。  ところがふたりの姿が、玄関のなかへ消えるとまもなく、きょうもまた、宮川美津子がこの家へ、つれこまれた晩とおなじようなことが起こった。自動車の後尾トランクの蓋がひらいて、なかからヌーッと出てきたのは、なんと小林浩吉ではないか。  浩吉はトランクのなかからぬけだすと、忍びあしで、ギャレージの入り口までやってきた。さいわい、きょうはこのあいだとちがって、ギャレージのドアはしまっていなかった。  浩吉はおびえきった顔をひきつらせて、そっと入り口から外をのぞいたが、そのとたん、うしろから体を抱きすくめられて、思わず声を立てようとする口を、大きな手がきてふたをした。 「しっ、声を立てちゃいけねえ」  聞きおぼえのある声に、首をうしろへねじむけた浩吉は、そこに立っている人形つくりの河野十吉をみて、思わずほうっと|溜《た》め息をついた。 「なんだ。おじさんだったのか」 「しっ、大きな声を出すンじゃねえ」  と、十吉はギャレージのかげへ浩吉をつれこんで、 「いまがだいじな瀬戸ぎわだあね」 「おじさん、それじゃいよいよ幽霊男がつかまるのかい」 「ふむ、まあ、そんなところだ。さっき金田一先生に電話をかけておいたから、もうそろそろいらっしゃるじぶんだ。それより、|浩《こう》ちゃん、おまえどうしてあんなところにかくれていたんだい?」 「ううん、金田一先生に、おばさんによく気をつけていてくれといわれたから、お店のまわりを見張っていたら、あいつが自動車のなかにもぐりこんだので、おいらもあのトランクのなかに忍びこんだのさ」 「あっはっは、そりゃ大手柄だな」 「だけど、おじさんはどうしてここにいるんだい?」 「おれか。おれもおなじことさ。加納先生によく気をつけているようにって、金田一先生からいわれたから、見えがくれにここまでつけてきたのさ」 「それじゃ、加納のおじさんもここにいるンだね」 「ふむ、いる」 「だけど、大丈夫? あいつ、やけくそになって、ふたりを殺しゃしない?」 「ふむ、だから金田一先生が、はやくくるように待っているンだが……だけど、まあ、大丈夫だ。野郎、いまにびっくりしやアがるぜ。あっはっは」  河野十吉はのどのおくでひくく笑って、 「まあ、浩吉、こっち来い」  どうやら金田一耕助は、ひそかにマダムXのかくれ家を見つけて、そこに|囲《かく》まわれている、河野十吉と小林浩吉を手なずけておいたらしい。  それはさておき、こちらは菊池陽介と三橋絹子だ。二階の部屋へ入って、菊池がスウィッチをひねったとたん、絹子は大きく眼を視はった。  鏡のついた洋ダンスに鳩時計、天井にはじょうごをさかさにしたような|電《でん》|燈《とう》がついており、ゆかには|虎《とら》の毛皮がしいてある。その他、ベッドやソファ、|椅《い》|子《す》などの調度類にいたるまで、あの今戸河岸にある、加納博士と三橋絹子の甘い思い出につながる部屋と、そっくり同じたたずまいである。  絹子は|侮《ぶ》|蔑《べつ》にみちた視線を陽介に投げかけると、 「これがあなたの手なのね。やっぱりあなたははじめから、あのひとに罪をきせるつもりだったのね」 「うっふっふ」  陽介はきみわるく笑って、 「まあ、そうおっしゃらずに、マダム、すこしはぼくのことをほめていただきたいですね」 「ほめるって、何を……?」 「あっはっは、ぼくはこれでも芸術家ですからね。命がけでつくった傑作を見てやってください。ほら、あのすばらしいヌード芸術を……」  絹子は壁にずらりとならんだ、大きなヌード写真に眼をとめたとたん、全身の血が氷のように冷えていくのをおぼえた。  そこには小林恵子からはじまって、西村鮎子でおわっている、かれのいわゆる「わが傑作」が、大きく引き伸ばされて陳列されているのである。  いや、いや、それは西村鮎子でおわったのではない。そのあとへ、この男はじぶんのヌード写真を、付け加えようとしているのにちがいない。……  この男の、蛇のような冷酷さと、サジストの残忍さを、しりすぎるほどしっている絹子だが、じぶんの血なまぐさいこの|罪《ざい》|跡《せき》を、そのまま写真にとって、誇らしげに示す相手の心理状態をかんがえると、絹子はなんともいえぬ恐ろしさをかんじずにはいられなかった。 「鬼! 悪魔!」 「あっはっは!」 「あのひとをどこへやったんです。あたしの三ぶをどこへやったんです!」  絹子はわれにもなく金切り声をあげる。 「あたしの三ぶ……?」  とつぜん、陽介の相好ががらりとかわった。いままでのにやにや笑いのかげがひそんで、凶暴なサジストの血が、どすぐろくその表情をゆがめた。じっさい、おなじ人間の顔が、かくもかわるものかと思われるばかりである。 「やい、あま! そこのカーテンをめくってみろ。そこにてめえの|情夫《いろ》がころがってらあ。そいつの見ている眼のまえで、おれはあきるほどおまえの体をしゃぶってやる。骨のずいまでしゃぶりつくして、それから、それから……」  絹子はほとんどそのことばを聞いていなかった。ころげるように部屋のすみへ駆けると、そこに垂れているカーテンをひき裂くように開いたが、はたしてそこに加納博士が、がんじがらめにしばられたうえ、猿ぐつわまではめられて、丸太のようにころがっている。 「おお、三ぶ!」  抱きつこうとする絹子の髪を、うしろからつかんでひき倒すと、 「あま!」  と、憎々しげに叫んだ菊池陽介は、まるで気も狂ったように、絹子の肌につけているものを、ズタズタにひきさき、ほとんど彼女を裸にすると、あらあらしく、壁にかかった|馬鞭《むち》をとりあげた。     甘美なる殺人 「やい、みろ、|爺《じじ》い、おいぼれ、色男、この女はな、おれの|嬶《かか》あだったんだぜ。おれはこいつをさんざん|可愛《か わ い》がってやったもんだ。ところがこのあま、おれの可愛がりかたが気にくわぬと、うちをとび出して、てめえとくっつきあがったんだ。あっはっは、おれの可愛がりかたか。おれの可愛がりかたというのはな、こんなふうにするんだ」  ぴしりとはげしく馬鞭が鳴って、絹子の肌に、さっといたいたしいみみずばれが走る。髪の毛をひっつかまれた絹子は、逃げることもできないで、ひいイと鋭い悲鳴をあげる。 「やい、あま、絹子、もっと泣け、もっと声をあげて苦しがれ。てめえが悲鳴をあげればあげるほど、おれの体はよろこびにふるえるんだ。快感にみうちがうずくんだ」  それはもう人間の所業とは思えなかった。振りおろす馬鞭の下で、絹子の白い肉体が、苦痛にもだえ、のたうちまわればまわるほど、菊池陽介の|歪《ゆが》んだ顔には、悪魔のよろこびがもえあがる。やつぎばやに降ってくる鞭のしたに、絹子の|柔《やわ》|肌《はだ》はやぶれ、肉は裂け、むごたらしく血が走る。  絹子は呼吸もたえだえになりながら、しかし、苦痛をこらえて、ほとんど声を立てなかった。悲鳴をあげることによって、いっそう相手を凶暴にすることを恐れたのか、それともほかに理由があるのか……。  ひとしきり凶暴な鞭をふるっていた陽介は、やがて全身に汗をかくと、がらりと鞭を投げ出して、ふかぶかとアーム・チェヤーに腰をおとした。それから、そばの卓上にある洋酒の瓶とグラスを取りあげると、強い酒を二、三杯、立てつづけに飲みほして、やおらカーテンのむこうへむきなおった。 「なあ、おいぼれ、爺いさん、加納先生、世のなかに何が面白いって、人殺しほど面白いものはないねえ。ことにじぶんが絶対に、安全地帯にあることがわかっているときはね。あっはっは」  陽介はなおも強い酒を|呷《あお》りながら、馬鹿げた声をあげて笑った。 「おかしなやつは建部健三よ。妙ちきりんな|扮《ふん》|装《そう》をして、共栄美術|倶《ク》|楽《ラ》|部《ブ》へやってきやがった。しかも、その名も幽霊男。……うっふっふ、しかし、正直なところおれもはじめはおどろいたんだ。ゾーッと寒気がしたくらいだ。ところが、そのうちにおれはふと、扮装のしたからのぞいている、建部健三の素顔に気がついた。おや、やっこさん、変なまねをするぜとおどろいた。よっぽどそのとき、素っぱ抜いてやろうかと思ったが、これには何かわけがあるにちがいないと思ったもんだから、わざとしらぬ顔をしてやった。……やい、おいぼれ、聞いているか」  しかし、カーテンのむこうがわでは、加納博士が身うごきもしない。猿ぐつわをはめられたまま、呼吸をひそめているのである。  菊池陽介はまた強い酒を呷って、 「さて、その晩、おれは健三のやつを尾行したんだ。そして、あいつが聚楽ホテルで部屋を予約し、翌日トランクを送りとどけるから、だいじにして、部屋へはこんでおいてくれと、帳場で交渉しているのを聞いたとき、おれはあいつの計画がほぼ読めた。さてはやっこさん、事件をデッチあげるつもりだなと、そう思ったもんだから、またそこから、健三を尾行して、お茶の水の聖堂のほとりで、まんまとホテルの|鍵《かぎ》をまきあげたんだ。あっはっは、やい、おいぼれ、それからあとのことはおまえもしっているとおりだ。恵子が生きて発見されたら、せっかくデッチあげた事件も面白くない。殺されて発見されてこそ、特種のねうちがあるんだからな。だからおれが|画竜点睛《がりょうてんせい》をしてやったというわけだ。あっはっは。なあ、おいぼれ、爺さん、加納先生、世のなかにこれほど面白いことはないねえ。これほど血のわきたつ|娯《たの》しみはまたとありますまいよ。いくらおれが人殺しをしても、幽霊男はべつにいるんだ。おれは幽霊男という、かくれ|簑《みの》のなかにかくれているんだからねえ。あっはっは」  いまや得意の絶頂にある菊池陽介は、またばかげた高笑いをあげると、 「じぶんの身に、ぜったいに危険がないとわかっているときの殺人遊戯……世にこれほどスリルと娯しみにみちたあそびはほかにあるまいよ。しかも、その娯しみのあげくには、骨をしゃぶり、血をすするような|復讐《ふくしゅう》ができるんだからな。あっはっは、どれ、それじゃ、ぼつぼつ、復讐のさいごの仕上げにとりかかろうか」  陽介はそこでよろよろと立ちあがると、グラスになみなみと酒をついで、絹子のそばへちかよった。 「おい、絹子、これを飲めよ。気つけ薬だ」  絹子は床につっぷして、苦しそうなうめき声をあげながら、弱々しく首を左右にふる。 「おい、飲めったら飲まないか。これからがいよいよ本式じゃないか。あの爺さんにさんざん見せつけてくやしがらせてやるんだ。おい、絹子、飲めったら飲め!」  絹子を仰むけに押し倒すと、陽介はそのうえに馬乗りになり、鼻をつまんでその口に、強い酒をそそぎこんだ。絹子は強い酒にむせんで、呼吸もたえだえに|咳《せ》きこんでいる。  陽介は血走った眼でにやにやそれを見ながら、絹子の肌からさいごの一枚をはぎとろうとしたが、そのとき、突然、強い力でうしろから腕をつかまれたかと思うと、いやというほど床に|叩《たた》きつけられていた。     |堕《お》ちたる仮面 「あっ、だ、だ、だれだ!」  それこそ天地がひっくりかえったほどびっくりして、あわてて起きなおった陽介の面前で、 「絹子、絹子、しっかりおし」  と、ひしと絹子を抱きしめているのは、なんと、加納博士ではないか。 「おお、三ぶ……三ぶ……」  絹子はのどをゴロゴロいわせて、口から少し血の泡をふきだした。加納博士はいたいたしそうにその血をふいてやりながら、 「絹子、堪忍しておくれ。おまえにこんな苦しい|想《おも》いをさせて……わたしはもっとはやくとび出したかったんだけれど……」 「いいのよ、いいのよ。三ぶ、あたしはしってたの。あそこに縛られているのが、河野さんの作った三ぶの人形だってことを。……あなたさえぶじでいてくれたら、あたしどんな苦しいことでも辛抱できるの」 「絹子……絹子……」 「三ぶ……三ぶ……」  カーテンのおくにころがっている、あのいまいましい人形に眼をやった菊池陽介は、とつぜん、じぶんこそ世にもおろかな|道《どう》|化《け》者であることに気がついた。 「ち、ちくしょう!」  悪鬼の|形相《ぎょうそう》というのは、おそらく、そのときの菊池陽介の顔のようなのをいうのだろう。絹子を|馬鞭《むち》でなぐっているときのかれの顔には、凶暴さのなかにも、まだ、どこか気持ちのよゆうと、不健全ながらも快楽のかげがさしていた。  しかし、いまの菊池の表情にはそれがない。追いつめられた野獣の、絶望的な怒りと恐怖が、たとえようもないほど、菊池の顔を凶暴なものにねじまげた。 「ち、ちくしょう」  もう一度するどく叫んで、|地《じ》|団《だん》|駄《だ》ふむようなかっこうで、ポケットのピストルに手をやろうとする瞬間、うしろから誰か来て、いやというほどその腰を|蹴《け》りあげた。 「わあ!」  それこそ、踏みつぶされた|蛙《かえる》のような声をあげて、まえのめりにのめった陽介が、あわてて起きなおろうとするところへ、とびこんできたのはふたりの刑事だ。  二、三度はげしく陽介の双の|頬《ほお》に、火の出るような平手打ちをくわせると、ガチャリと音をさせて、すばやく手錠をかけてしまった。  菊池陽介はふらふらとするからだを、やっと立てなおすと、|茫《ぼう》|然《ぜん》としてあたりを見まわしたが、その眼にまずうつったのは、もじゃもじゃ頭の金田一耕助。そして、そのそばには、等々力警部が憎悪にみちた|眼《まな》|差《ざ》しで、菊池の顔をにらみながら立っている。  部屋の内外にあふれた刑事たちのなかには、河野十吉と小林浩吉の顔も見える。  菊池陽介はポカンと口をひらいたまま、いったい何事が起こったのか、じぶんでも|合《が》|点《てん》のいかぬ顔色である。  そのまえへ来て、 「菊池さん、世のなかに、じぶんほどかしこいものはないと思いこんでいると、とかく間違いが起こりやすいようですね。いや、いろいろ参考になる話を聞かせていただいて、ありがとうございました」  と、ペコリと頭をさげたのは金田一耕助である。  さっきから、悪い夢でも見るように、ぽかんと立っていた菊池陽介は、金田一耕助のその一言で、はじめてじぶんの立場に気がついたのか、急にわあっと泣き出した。  それからこどものように地団駄をふみながら、金切り声をはりあげて、 「ぼくはしらん。ぼくはなんにもしりませんよ。どうしてぼくに手錠をかけたりするんです。ぼくは……ぼくは……ぼくは……」  菊池陽介はまたわあっと泣き出したが、これには金田一耕助もあきれかえって相手の顔を見なおした。 「ぼくはほんとになんにもしらんのです。幽霊男はその|爺《じじ》いです。そうです、そうです。幽霊男というのはそこにいる加納博士です。警部さんもそうおっしゃってたじゃありませんか。そして……そして……そこにある写真は、みんなその爺いがとったんです。ぼくはしらん。ぼくはなんにもしらんのです。警部さん、警部さん、ぼくは……ぼくは……」  顔じゅう涙でベトベトにして、菊池陽介がそばへよってくると、警部はまるで毒虫にでもさされたようにとびのいて、 「そのけだものをはやくむこうへつれていけ……」  と、嫌悪にみちた声でどなった。  警部もいままで、これほど卑劣で、きたならしい犯人にお眼にかかったことはない。 「警部さん、警部さん。ぼくはほんとになんにもしらんのです。ほんとにぼくは……酔っぱらってたもんだから、つまらんことをしゃべったけど、あんなこと、|嘘《うそ》っぱちだってこと、警部さんは御存じでしょう。警部さん、金田一さん、いや、あの、金田一先生、ぼくは……ぼくは……ぼくは……」  泣きわめき、あばれもがきながら、刑事につれだされていく菊池陽介の後ろ姿を見送って、金田一耕助と等々力警部は顔を見合わせて、あらためてはげしく身ぶるいをする。  あれこそ菊池陽介の素顔なのだ。あのひとを食ったにやにや笑いの仮面の底には、蛇のような残忍さがかくれていたけれど、その残忍さのおくにはまた、あの筆にもことばにもつくしがたい、きたならしい卑劣な魂がひそんでいたのだ。  等々力警部は帽子をとり、ねっとりとふきだした汗をぬぐうと、もういちど、気味わるそうに身ぶるいをし、それから何かいおうとしたが、そのとき、金田一耕助がしいと唇のうえに指をあて、床のうえで抱きあっている、加納博士と絹子のほうへ眼くばせをした。  絹子は幸福そうに、加納博士の胸に頬をよせて、 「三ぶ、三ぶ、あたし苦しいのよ、体じゅうがうずくのよ。三ぶはあたしの介抱してくれるわね。あたしそれくらいの権利があってよ。ねえ、三ぶ……三ぶ……」 「おお、絹子……絹子……」  金田一耕助は等々力警部の腕をとり、しずかにその部屋から出ていった。 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。 (平成八年九月) 金田一耕助ファイル10 |幽霊男《ゆうれいおとこ》  |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成13年12月14日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Seishi YOKOMIZO 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『幽霊男』昭和49年5月30日初版発行         平成8年9月25日改版初版発行